2014/12/29

のばら 《2》



 お目覚めかい、可愛い坊や。ようこそこの明るい世界へ。君は、そうだ、神の子とでも呼ぼうかね?これを聞いたらお堅い大臣がたは憤慨なさるかもしれないな、全く、真理を履き違えた××どもめが!ともかく、君は誇らしい、私たちの可愛い坊や。

 さあ、蜂蜜入りの甘いミルクをおあがり。





 僕の記憶装置の一番奥底にある音声データ、つまりは僕の最初の記憶、この身体が作動を始めた記念すべき日の博士の言葉。興奮のあまり早口で捲し立てていた博士の口からは唾が飛び(平素は穏やかな紳士である博士にしては珍しいことだ)、僕はその飛沫の軌跡ひとつひとつを視覚認識プログラムで追っていたので、後日そのデータを確認した博士はとてもきまり悪い思いをした。


 ところで僕はこのとき、博士の研究のたまものであるプログラムを介して外界からの刺激を受容・記録することは出来たのだが、自発的な行動を取るまでには至っていなかった。人間の赤ん坊のように空腹や排泄を伝えるために泣き叫ぶこともしなかったので、充電が切れる頃になると次第に動きが鈍くなり、まるで人間が居眠りをするように静止してしまう。つまるところ、僕はよく出来た人形に過ぎなかったのだ。

 博士の偉大なところは、僕をただの精巧な機械には作らなかった点にある。愚直なまでに人間を再現することに努めたのだ。博士の実力を以てすれば、たった一体で軍隊ひとつ潰せるような、まさに歩く百科事典のような、文明も英知も何もかもを収めたロボットを作れるはずである。しかし彼が半生を費やして生み出したのは、どこにでも居る、何の変哲もありはしない少年の姿をした機械だった。ボールが飛んで来れば咄嗟に避け、福音書を一読しただけで暗誦出来るような能力も無く、朝寝坊だってする。



 博士以外の科学者たちや権力者たちが追い求めていたのは、間違っても僕のような、地球上の人口をひとり増やすだけに等しいロボットでは無いはずだ。人間が出来ないことをこなしてみせる、或いは人間が厭う事柄を処理してみせる――望まれた能力をインプットされたロボットが数多く生み出され、働き、もしかしたら誰かの手で優しく労られ慈愛を以て触れられ、そして終わりを迎え――分解されてしまう。ロボットという個体から部品へ、素材へ、成分へ、砕かれてしまう。



 緻密に計算されたフォルムの、しかし大多数の人間に言わせるといささか懐古趣味であるらしい博士の邸宅兼研究所の隣人である侯爵家では、靴磨き専門の少年型のロボットが雇われていた。侯爵家の次男坊と然程変わらぬ背丈のそのロボットは、やんごとなき侯爵家の家人の靴を美しく磨き上げるべく設計され、そのように日々の労働に勤しんでいた。ロボットにしてはなかなかに恵まれた環境であるとは確実では無いか、侯爵の主催で誕生会など盛大に催されていた程であるから。その彼の悲劇ときたら突然であり、嵐の十一月に雷に打たれてしまったのだ。博士とのディナーの真っ最中に(メインはサーモンのクリーム煮であった)彼が担ぎ込まれて来て、清潔な白いダイニングには炭と火花と、恐らくは毒性の煙を発している回路の欠片が散らばった。侯爵は錯乱し、博士はナプキンを引きちぎる勢いで首もとから外して研究室に駆け込み、その後三時間は戻らなかった。

 偉大なる僕らの博士が手を尽くした三時間にもかかわらず、落雷による衝撃で頭部がかち割れたロボットは、毎日靴を磨いていた両腕だけをそのままに、ほぼ炭の塊としてロボット生命を終えた。侯爵はその年のクリスマスにツリーのてっぺんに星を飾ることを頑なに拒み、明くる年のニューイヤーパーティーまでは少なくとも塞ぎ込んでいた。しかし彼は知らないのだろう、ご自慢のフランス窓に添えられたカフェカーテンの金具の一部が、かのロボットの耳を形作っていた部品であることを。

 その後の僕があまりにも自分の耳を神経質に弄っていたために、疑似皮膚組織はすっかりぼろぼろになってしまい、博士を面食らわせてしまったことがあった。そのことについて博士に問い詰められた際、博士も僕をカーテンの金具にしますか、と訊ねてしまった。博士で無くとも、こんな問いを持ちかけられたら誰だって困惑するだろう、実際博士は首を傾げ口髭を引っ張るという意味の無い動作を繰り返していた。その末に与えられた回答は、君がカーテンの金具で無いことは確かだから、そんなことは有り得ないのではないかな、きっと、というものだった。



 靴を磨けずカーテンの金具として収まってしまった彼と、何もせず何にもならないという自分が、同じ「ロボット」と呼ばれること。博士は僕が万能である必要は皆無だと僕に語り、最高の工学を駆使して平凡を生み出した。分かっていたのは、僕はカーテンの金具にはならないだろう事だけ。