2014/12/29

のばら

 人間はどうやら懲りずにまた戦争を始めたらしい。

 有史以来のあらゆる科学技術を詰め込んだ爆弾をばらまいたところ、程なくして世界中は焼きつくされてしまい、事実上人類も多くの種の生物も絶滅してしまったのだよ、と博士は言った。では何故僕らはこうしてここにいるのです、この存在は絶滅を否定する条件にはなり得ませんか、と訊いたなら、というのもね斯々云々、いつものように専門用語を並べて説明を始めた。


のばら



 このとき、僕が音声の羅列を聞き流しているのを博士はきっと知っている。

 始めのうちは口を挟んで質問して、博士も細かく説いてくれたものだけれど、どうやら僕の首根っこに埋められたICチップはあまり性能がよろしくないようで、言葉は零れ落ちてしまう。出来損ないの僕は何度も何度も訊く、優しい博士は嫌な顔せず何度も何度も答えてくれる。博士の声はただいたずらに発せられるためのものではないのだから、いつしか僕は黙るようになった。頭が良くなったふりをして僕は頷く。「わかったよ、博士」。

 嘘は駄目だと教えられたけれど、この一言で博士の柔らかい声が無駄に空気に消えることは無いのなら、これで良いじゃないか。博士は頭が良いから僕の嘘に気づいている、でも怒ったりなんかしない。「そうかい、坊や」と僕の頭を撫でて、困り顔で白衣の胸ポケットからダークグリーンの手帳を取り出して、何か書きつけるのだ。



 僕は嘘つきで、博士も嘘つきで、二人ともが嘘をついて、僕たちはほんの少しの寂寥と穏やかな泥濘を感じながら生きていた。それが三日も前のことだった。





 博士はいま、マホガニーのデスクに突っ伏していた。


 いいかい、今日から君の身体に充電器は必要が無くなったんだ。1時間だけ太陽を見つめるだけで24時間は不自由なく動けるはずだよ。あいにく検証の時間が取れないけれど、改良は成功したのだと信じている。ああ、もっと時間があったならば、この喜びを分かち合ったというのにね。残念だ、実に、残念だ‥‥



 デスクから顔を上げてそう一息に言うと、博士は目と唇を閉じて深呼吸をした。柔らかい口髭がむにゃむにゃと動く。これは眠くなったときの癖。博士はおとといから眠らずに僕の体をいじっていたのだから、そりゃあ眠いだろう。眠いとICチップに電流が流れにくくなって、スムーズに動いたり判断を下したりが出来なくなる。おまけに、まぶたを引っ張り上げている特殊ゴムの働きが弱くなって、終いには目が閉じてしまうのだ。



 坊や。私はもう眠りに就くけれど、君にはもう就寝時間なんて必要が無いだろうから、気が済むまで遊びまわると良い。こんな時まで私の、いや、人類の我儘に付き合う必要はないんだ‥‥でもね、この愚かしい瓦礫の上を平気な顔をして君が歩けるのなら、それだけが、我々の唯一の成功なんだろう。――ホットミルクを作ってくれないかい?それくらい、罰は当たらないだろう。



 僕が作るホットミルクを、博士は美味いと言って飲んでくれるのは毎日の楽しみであった。だから僕は喜び勇んでドアに向かう。博士はいつもと変わりない笑顔を浮かべたけれど、ここ数日で博士の容貌は変わってしまっていた。


 髪も口髭ももっとふさふさとしていたのだけど、今はしんなりとして、しかも鳶色からくすんだ白になっていた。博士はスポーツ好きな人であるから、顔は日焼けしてそばかすが点々とあったけれど、それに加えて青紫の痣がいくつか浮くようになった。歳をとると人間の外見は変わるというけれど、博士は随分と短い間に老けこんでしまった。


 栄養豊富なホットミルクを作りますので、待っててくださいね。少し時間がかかるけど。


 キッチンは廊下に出て右に行けばすぐだけど、あいにく牛乳は屋敷の外の「ちょぞうこ」にしか置いてない。食糧が汚染されないように、少し離れた銀色の頑丈な「ちょぞうこ」から必要最低限だけ持ち出して、汚染されないうちに食べきるのだ。もっとも僕には食事は必要ないから、これは博士の食事のための措置だけど。



 博士が再びデスクに顔を沈めたのを見届けて、僕はドアを開けた。ここ数日で黄ばんでしまった壁紙が続く廊下を、ぽてぽてと歩く。皮膚に若干の鋭さを感じるのは気温が低いからで、暖房に電力が供給されなくなったのだとわかる。


 玄関ドアを押すと、ちりちりとベルが揺れて鳴る。この音を聴くのは久しぶりだ。


 晴れた日の冬の空気は張りつめていて、ひりひりと、寒さのせいだけでは無い鋭さを持っていた。