2015/01/23

ベゴニア

 たったひとつのほしいものさえ手に入れられなかった時のことを思い出していた。私はまだやっと10歳になって、がりがりのやせっぽちで、善良な市民だった。

 しかし私はこの夕暮れのことをたいそう好いていた。いつか、霧のことを白くけぶる奥行きを持ったスクリーンと表現したところ、ママに笑われてしまった。彼女が肩を大きく揺らすのでティースプーンがカップに当たって紅茶が少しこぼれて、テーブルクロスに馬の蹄の形をした染みができた。ようやく笑いを抑えたころ、あんたは本当に誰に似たんだね、詩人にでもなるといいさ、と言って、西日のきつい窓のほうに首を向ける。落ち日に目を細めたママの目尻の皴、光の加減で少しだけ緑がきらめく榛色の瞳がきれいだった。

 その奥行きを持ったスクリーンはいつだって光を拒まずに、なめらかな帯をいくつもその身に貫かせ、世界を白く、時に赤く染め上げる。夜を闇色にするのは光ではなく、光がないから世界は色彩という浮力を失って、すべて闇の底に沈んでゆくのだという。沈みっぱなしだと困るから、陽が昇ると世界に色が蘇って、浮かび上がって、そうして朝毎生き返る。朝陽が目に突き刺さって痛いのは、きっと生まれる痛みだ。

 大気をいっぱいに満たす微細な水分たちは、理科の教師が教えてくれた砂鉄が磁気に吸い寄せられてうねるさまに似ていた。これが岬の真下で忙しなく岩を洗う、あの紺青の海と同じものだなんて信じられない。世界はときどき嘘みたいなことが起こる。

 だって私には闇が見える。




 ルネがスコップを放り投げた。ところどころ草木の根がむき出しの斜面を、ときどき石ころをカラカラと擦りながらスコップが滑り落ちてゆく。ルネは何も言わなかったけど、それは作業はおしまいのサインだと私にはわかった。彼はせわしなく息を吐いて肩を揺らしていた。まだ冬を抜け出して幾日も経っていない寒さのせいで吐く息は白いのに、それとは対照的に頬を林檎のように上気させているのがおぼろげに見える。額に浮いた汗が滴を作って頬を伝う。ここは燃えるような命の色をしたスクリーンではない。カラスだって巣に帰って深く眠りについている、早春の真夜中の冷たい森なのだ。湿った土のにおいがする、深く暗い緑をした森のなかで、ルネだけが、彼の命だけが静かに燃えている。

「帰ろう」
 
 そう呟いた彼の声は少し震えていた。帰ろうと、呼びかけているにもかかわらず、その目は私をとらえてはいない。泥だらけのゴム長靴のつま先の剥がれかけたのを見つめながら俯いている。細かった雨が少し重みを増している。

「帰ろう」

 汚れた手袋を乱暴に脱ぎ取って、ひとまとめにして先程のスコップと同じように放り投げると、白い布の塊は音もなく谷底に吸い込まれていった。私はそれを見つめたまま、何も出来ないでいた。黙り込んだままの私に痺れを切らして、ルネはこちらを向いて私の腕をとり、もと来た道を足跡を辿って戻ってゆく。


 
 この森に置き去りにした秘密は永遠に秘密のまま、誰にも知られることなく消えてしまうのだろう。東の空が薄い墨色に染まり、厚い雲を朝陽が割り始めた。山をいくつか挟んだ遠くから、サイレンの音が歪んで聞こえる。全部が嘘のような明け方の森で、冷たいルネの手だけが真実だった。


 あなたのことを愛していたよ、本当だよ。