2015/08/23

祝福と呪い

 その日は左足のかかとに靴擦れを作ってしまったので、右足の指先でその水ぶくれを撫ぜながら眠りに就いたのだった。もしかしたら、所有を解かれようとしているその皮膜のなかの物語だったのかもしれない。
 起伏に富んだ地形をした、自然が豊かな場所だった。それはマチュピチュのようであったし、ワールドカップの特集番組でよく流れた、ブラジルの風景を空撮した映像にもよく似ていた。干からびて粉っぽい泥岩が転がる谷は、荒い岩肌を晒してそびえ立ち、その切っ先はまっすぐに空をめざしている。同じく空のふもとには文明らしさに満ちた都市が広がっている。摩天楼さながらの高層ビル群、いくつもの街を繋ぐのはゴールデンゲートブリッジそっくりの大きな橋だった。そこに車はなく、人々がひしめき合って行進している。鼓笛隊の格好をした黒人、Tシャツにジーンズの子ども、立派なスーツの紳士。彼らの身なりも人種もてんでばらばらで、ひとりぼっちで迷い込んだようなのもいれば、どこか大学のスポーツチームのような、揃いの服を着た騒がしいグループもいる。ただ彼らは何ものかに静かにとり憑かれて、等しくひとつの方向に進み、引きずられていた。
 私はそんな彼らを窺いながら、曲がりくねった山道をひとり上っていた。あちらは陽がきびしく照りつけて地面もすっかり水分を失った色をしているのに、こちらはじっとりとした霧雨だった。霧があまりに深いので、建物とその番人に気づくのが遅れたくらいだった。はたして彼は友人の父親であった。数年も会っていない彼は私の適当な想像らしく、頭に白髪を増やし、目の下に薄い隈を作っていた。彼は何も言わずに私を建物へ案内した。霧の奥に細い煙突の影が浮かんでいる。そこは火葬場であった。
 火葬場の手前には豪華絢爛極まりない装飾の施されたお堂があり、そこで足を止めた。派手なお堂とは対照的に、庭には砂利を引いてあるだけで何とも素っ気ない。その庭にはいくつか死体が横たわっていた、というよりも打ち捨てられていたとの表現が似つかわしいだろう。足元にいる女性らしき身体は裸足で、雨で白いかかとの皮膚がふやけていた。私の後ろを通り過ぎてゆく老婆の二人組が言った。「いずれああなる」。雨粒でも消えない線香のにおいが強くなった気がした。
 ここまで何ひとつ言葉を発しなかった友人の父がおもむろに石を拾い上げ「これを持っておくとよい」と手渡してきたのは、小さなブーメランの形をした薄い灰色の石だった。それを受け取ったかどうかは覚えていない。
 ふもとに降りビル街に進む。道路は冠水しており、徒歩ではなく水流に任せて移動をするというルールらしかったので、何となく流れていたら唐突に街がぶっつり途切れており、市民たちは滝つぼへ吸い込まれていった。滝を真っ逆さまに落ちてゆく途中、水の向こうに足場が組まれていてヘルメットをかぶった作業員がせかせか働いているのが見えた。「心の奥にインビジブル・ライフ」と垂れ幕に書かれているのを目で追いながら、たっぷり10階分は落下したように思う。
 私も周りの人間たちもみな無傷で、そのまま明るいトンネルを流されることとなった。進行方向の右側に水面から伸びる石段があり、それは壁際のドアに通じており、それらは10メートルおきに設置されている。トンネル内に備え付けらえた非常電話のようだが、あれはこんなにたくさん設置しておくものではない。流されているうちに、そのドア付近には女性たちが立つようになった。彼女たちはみな淡い若草色のロングドレスに身を包み、流れに飲まれている私たちのほうへ手を伸ばしているのだった。彼女たちは占い師なのだという直感が私にはあったが、何故だか感じる忌まわしさの正体はわからなかった。
 そのうちある女性の顔に意識を縫い止められたかのように目が離せなくなった。同じまとめ髪、ドレス、伸ばされた手。これまでの人生のうちで絶対に出会ったことがないとはっきり言えるほど、その顔は具体的すぎた。夢の世界では追いつけないような、細密な形質の描写…ああ、これは夢だ。でも彼女はきっとどこかに実在するんだろう。
 彼女の口が大きく横に引き伸ばされて、ニタリと笑った。祝福と呪い、そんな顔をしていた。