2018/03/17

3週間目の薔薇

 枕に付いているほうの耳だけはいつも温かく、じんわりと湿り気を帯びて寝床に溶け込もうとしている。塩素のにおいが日射しをうけてふくらむ夏休みのプールで、耳に入った水を呼ぶためにプールサイドに頬を寄せたときのこと。こぽこぽ。その領分を再び空気へと明け渡すべく、出口を求めて水が耳のなかを伝う。そうして別れの挨拶を告げるかわりに、耳介をほんの少しだけ温めてゆく。

 夏のことなど全然好きではないのに、郷愁という言葉によって呼び起こされる情景はいつも夏だった。冷えたつま先を擦り合わせて数え切れぬほど寝返りを打つその季節は冬にもかかわらず。夢はいつも真実のふりをして後ろに横たわっている。

「どうしたの?眠れない?歌をうたう?」

 あなたが話しかけるから眠れないんだよ。



 自宅でおとなしく縮こまっているとき用の、ウールの靴下とレッグウォーマーを衣装ケースにしまった途端に冷え込んだので、また引っ張り出して着ている。それでも照る日射しは春だった。

 極端に悪い天気でなければ、掃除をするとき私は窓を開けることにしている。灯油ストーブの運転による水分を逃がし、掃除機が押し出す微細なほこりを外に押し出すためだ。居室の大窓を網戸ごと開き、対角にあるキッチンの窓も開いて通り道を作る。少し風があったので、黄色いバラを生けた瓶が倒れぬように部屋の隅に移動させ、重さのあるガジュマルの鉢はベランダに出してそよがせた。みどりがやさしく揺れている。私はその日はじめての口づけを幹に与えた。

 ふだんのルーティンに加え、ハッカ油を混ぜたスプレーを片手に家じゅうをまわる。キッチンに吹き付けると爽やかな香りが弾ける。あちらこちらの幅木や桟に薄く積もったほこりを除く。押し入れから衣装箱を取り出して、毛羽立った木目に絡んだほこりを一掃し、引き戸を開けたままに春の風を送る。いまは冬の終わりと春の始まりのどちらだろうか。

 浴室は昨晩に綺麗にしてあるので、折戸の枠を雑巾でひと撫でするだけだ。

 玄関をざらつかせる砂を箒で掃き出し、いくつか靴を並べて検分する。洗ったほうがいいスニーカー、クリームを塗るだけでいいパンプス、革に傷が見て取れるので簡単な補修が必要なブーツ。作業は匂うので玄関ドアを開け放したままで、ワイヤレスイヤホンから流れる音楽の向こうで路線バスのエンジン音が聴こえていた。

 いつの間にか一度目の洗濯は終わっていた。冬のにおいを抱え込んで、静電気でもって何かを拒絶するようなしぐさを繰り返した分厚い毛布も、洗濯機にかかればただのやさしい生地だった。ベランダに張った洗濯紐に引っかけて、風にさらわれぬように固定する。

 動きどおしとはいえ、さすがに手足が冷えていた。ストーブの電源を入れて、家じゅうの窓をひそりと閉じ、ハーブの香りの石けんで手を洗った。きょうは図書館への返却は迫っている本を読み切らないといけないのだ。