2016/06/24

世界じゅうの三月を焼き尽くす

 それまでの会話の内容から、何がどうなって生死なんて高尚な話になったのかなんて覚えていない。彼女と会ったのは、アップルパイを渡すためだった。彼女は僕の作ったアップルパイをたいそう好んでくれるから、嬉しくて僕はいつも張り切って焼くのだ。シナモンの香りがパイを入れた箱から漏れている。彼女が押す自転車のカゴにおさまったそれは、かたかた揺れるたびに紙の合わせ目から逃げ出してゆく。もう七年も乗っているという自転車はあちこち錆だらけで、チェーンはすっかり茶色くなって回るたびにキイカラ音を立てているし、カゴの網目なんか前の底のほうが鋸でも入れたみたいにぱっかり離れている。カゴというよりは箱型の金網と呼ぶべきかもしれない。それは、アップルパイを包んだ真っ白な箱を、けなげに抱えているのだった。

 アップルパイと、カスタードクリームの話をしていたはずだった。コレステロールが気になるから卵は一日一個と、若いのに妙に所帯じみたところのある彼女は、さてこのデザートは一日あたり何切れまで口にしても差し支えないか、なんて計算を始めたのだった。



 土手沿いの道をふたりで歩く。薄いオレンジの太陽を僕から隠すように、彼女は西側に立っている。三か月も放っているので嵩の多い彼女の髪が赤く透けて風に吹かれているのを見て、一度だけ彼女が頭髪検査で咎められた時のことを思い出していた。遠くから汽笛の音がよく響いているから、明日はきっと雨なのだろう。地平線に近付いてゆく太陽の少し冷たいオレンジを辿って東の空へと首をぐるりと向けると、青味がかった灰色が沈んでいるのが見える。試験管の底に沈殿した石灰のような、粉っぽくぱさついた色をしていた。

「生きるというのは、いまこうしてあなたと喋っていることとか、息をしたり身体を動かしたりということじゃないね。何ていうの、それは現在の事実であって・・・ひと続きの時間の流れを意識してるわけじゃないでしょ」

 まだ肌寒いというのに、彼女は手袋をせずにいた。血行の悪い手の甲がうっすらまだら模様になっている。

「生きる、って生命活動してるってことじゃなくて、前向きな、意欲みたいな意味がひっついてると思うんだ。過去はこうだった、未来はこうしたい、じゃあ今はこうするべき、みたいに」

 彼女とは付き合いが長いのに、こういった話をしたことがなかった。生と死については答えがないのだろうし、もっともこんな会話は進んでなされることなんて滅多にない。いつもそうだ。生という枠組みにはめ込まれたあらゆる事柄によって、24時間、365日は満たされてしまう。満たすために、24時間、365日を過ごす。溢れてしまった先のことは、知らぬふりで。



 ふいに彼女が歩みを止めたので、僕も倣って立ち止まる。彼女は僕に自転車のハンドルを預けて、腰を屈めて足の甲の上の何かを摘まんだ。ポプラの綿毛が靴からのぞいたタイツに引っ掛かっていたのだった。親指と人差し指の腹で綿毛を挟んで擦り合わせるとみるみるうちにボリュームが失われてゆく。潰された綿毛が付いた指先をダッフルコートで拭い、彼女は目だけでハンドルを返すように言うので、その通りにする。そしてまた歩き始めた。

「冬が終わるね」

 渡り鳥が隊列を組んで西から東へ飛んでいくのが見えた。鳴き声ひとつたてず、どことなく不格好な隊列を保ち続けて青灰色へと飛び込んでいく、あの鳥たちにもきっと名前があるのだ。

「わたしは」

 スニーカーのひもが緩んで、足を踏み出すたびに紐の端がぬかるみに触れて染み始めていた。ほどけてしまいそうだ、家に帰ったらすぐに洗わないといけないだろう。この川沿いの土は頑固でなかなか落ちないから。

「私は死ぬよ、あなたが思ってるよりずっと早く、もしかしたらみじめに醜くなって・・・何だか、生きるのも死ぬのも難しいって思う。終わりがちらついてくると、ね、歩くのもしゃがむのも辛いような気がするもの」

 西の空は薄いオレンジから紫を帯びたピンクに染まっていて、きっと東の空はもう底無しの闇色をしているのだろう、そちらには目を向けずに考えた。夕暮れの薄紅は、彼女がいつか枯らしてしまったバラの花にとてもよく似ていた。



「ねえ、どう、あなたにはわかる?」