年に2〜3回のペースで旅行をするようになった。旅行が趣味と言っても言い過ぎではないだろう。以前は「旅慣れている」と名乗る必要要件に、マイルがすぐ貯まるとか、パスポートの更新がn回目だとか、とにかくそのような判定基準を設けていた。でもきっとそんなのは実にくだらないことだと、最近になってやっと気づいた。
交通機関の予約方法や、旅程を組むコツや(とにかく詰め込みはいけない。スタンプラリー的に名所巡りをするのは自分には合わないし、疲れる。なぜなら普段はタオルケットのにおいを嗅いでゴロゴロしているのだから…)、持参した方がいいもの、要らないものを、過不足なしに用意することができるようになった。
私は、ひとつの交通機関あたりの移動時間が長いことはあまり嫌ではない。乗り換えが多くボーッとする時間がないと、疲れる。例えば路線バスに1時間乗るのと、都内で鉄道乗り換えを3回して総時間が1時間なのでは、圧倒的に前者だ。とにかくアイドリングタイムが必要な性分である。立ち寄ったことのない座標に物理的に身を置きながら、物質的な経験を取り込むことには消極的で在る。自分の存在感が無に近い瞬間を知覚した時に、高揚感に近い不思議なときめきが生まれる。
これからは、旅行の良かったことを文章に記しておきたい。過去の旅行の良かった点はたくさんあったはずだが、当時の写真やSNS投稿を見返しても上澄みしか掬えず、もどかしい気持ちになる。
砂の像は乾くと崩れ落ちて、ずっと砂浜だったみたいな、砂浜以外であった瞬間などないかのように横たわっている。
風景、陽射し、気温、湿度、風速、肌の調子、脚の浮腫み、におい、味、眠気。
情報そのものはGoogleマップや気象庁のホームページにアーカイブがあるが、その場所その時間その身体で何を考えたか、感じたか、それだけが私に必要なものなのだ。そのストックを増やし続けなければ、生きている意味がないとさえ感じる。
この草むらを分け入った先で蔓に紛れたいとか、たまたま誰も通り掛からないだけの別荘地で世界から自分以外の人間が消えたような気分になったりとか、この崖から飛び込んでみたいとか、ホテルの壁の絵の連続に物語を見出したりだとか。
私は今までもこれからもずっとひとりであるから、過去と未来の自分たちと仲間ではいたい。