それまでの会話の内容から、何がどうなって生死なんて高尚な話になったのかなんて覚えていない。彼女と会ったのは、アップルパイを渡すためだった。彼女は僕の作ったアップルパイをたいそう好んでくれるから、嬉しくて僕はいつも張り切って焼くのだ。シナモンの香りがパイを入れた箱から漏れている。彼女が押す自転車のカゴにおさまったそれは、かたかた揺れるたびに紙の合わせ目から逃げ出してゆく。もう七年も乗っているという自転車はあちこち錆だらけで、チェーンはすっかり茶色くなって回るたびにキイカラ音を立てているし、カゴの網目なんか前の底のほうが鋸でも入れたみたいにぱっかり離れている。カゴというよりは箱型の金網と呼ぶべきかもしれない。それは、アップルパイを包んだ真っ白な箱を、けなげに抱えているのだった。
アップルパイと、カスタードクリームの話をしていたはずだった。コレステロールが気になるから卵は一日一個と、若いのに妙に所帯じみたところのある彼女は、さてこのデザートは一日あたり何切れまで口にしても差し支えないか、なんて計算を始めたのだった。
土手沿いの道をふたりで歩く。薄いオレンジの太陽を僕から隠すように、彼女は西側に立っている。三か月も放っているので嵩の多い彼女の髪が赤く透けて風に吹かれているのを見て、一度だけ彼女が頭髪検査で咎められた時のことを思い出していた。遠くから汽笛の音がよく響いているから、明日はきっと雨なのだろう。地平線に近付いてゆく太陽の少し冷たいオレンジを辿って東の空へと首をぐるりと向けると、青味がかった灰色が沈んでいるのが見える。試験管の底に沈殿した石灰のような、粉っぽくぱさついた色をしていた。
「生きるというのは、いまこうしてあなたと喋っていることとか、息をしたり身体を動かしたりということじゃないね。何ていうの、それは現在の事実であって・・・ひと続きの時間の流れを意識してるわけじゃないでしょ」
まだ肌寒いというのに、彼女は手袋をせずにいた。血行の悪い手の甲がうっすらまだら模様になっている。
「生きる、って生命活動してるってことじゃなくて、前向きな、意欲みたいな意味がひっついてると思うんだ。過去はこうだった、未来はこうしたい、じゃあ今はこうするべき、みたいに」
彼女とは付き合いが長いのに、こういった話をしたことがなかった。生と死については答えがないのだろうし、もっともこんな会話は進んでなされることなんて滅多にない。いつもそうだ。生という枠組みにはめ込まれたあらゆる事柄によって、24時間、365日は満たされてしまう。満たすために、24時間、365日を過ごす。溢れてしまった先のことは、知らぬふりで。
ふいに彼女が歩みを止めたので、僕も倣って立ち止まる。彼女は僕に自転車のハンドルを預けて、腰を屈めて足の甲の上の何かを摘まんだ。ポプラの綿毛が靴からのぞいたタイツに引っ掛かっていたのだった。親指と人差し指の腹で綿毛を挟んで擦り合わせるとみるみるうちにボリュームが失われてゆく。潰された綿毛が付いた指先をダッフルコートで拭い、彼女は目だけでハンドルを返すように言うので、その通りにする。そしてまた歩き始めた。
「冬が終わるね」
渡り鳥が隊列を組んで西から東へ飛んでいくのが見えた。鳴き声ひとつたてず、どことなく不格好な隊列を保ち続けて青灰色へと飛び込んでいく、あの鳥たちにもきっと名前があるのだ。
「わたしは」
スニーカーのひもが緩んで、足を踏み出すたびに紐の端がぬかるみに触れて染み始めていた。ほどけてしまいそうだ、家に帰ったらすぐに洗わないといけないだろう。この川沿いの土は頑固でなかなか落ちないから。
「私は死ぬよ、あなたが思ってるよりずっと早く、もしかしたらみじめに醜くなって・・・何だか、生きるのも死ぬのも難しいって思う。終わりがちらついてくると、ね、歩くのもしゃがむのも辛いような気がするもの」
西の空は薄いオレンジから紫を帯びたピンクに染まっていて、きっと東の空はもう底無しの闇色をしているのだろう、そちらには目を向けずに考えた。夕暮れの薄紅は、彼女がいつか枯らしてしまったバラの花にとてもよく似ていた。
「ねえ、どう、あなたにはわかる?」
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2016/06/24
2015/07/13
僕たちがまだ
僕たちがまだ両手の指にも満たぬ歳しか生きていなかったころ、ほんの数度しか夏を経験していなかったころ。夏が底抜けに眩しくて、甘い乾草のにおいを肺いっぱいに吸い込むと、反射的に目の奥から涙がにじみ出して、日焼けで傷んだ肩の皮膚がひりつく。日射しに貫かれて自分まで光になったような錯覚に陥るのだ。
目玉は前にしか付いていないから、その背がどんなに暗い影を背負っているのか、気付くことなどない。
2015/01/23
ベゴニア
たったひとつのほしいものさえ手に入れられなかった時のことを思い出していた。私はまだやっと10歳になって、がりがりのやせっぽちで、善良な市民だった。
しかし私はこの夕暮れのことをたいそう好いていた。いつか、霧のことを白くけぶる奥行きを持ったスクリーンと表現したところ、ママに笑われてしまった。彼女が肩を大きく揺らすのでティースプーンがカップに当たって紅茶が少しこぼれて、テーブルクロスに馬の蹄の形をした染みができた。ようやく笑いを抑えたころ、あんたは本当に誰に似たんだね、詩人にでもなるといいさ、と言って、西日のきつい窓のほうに首を向ける。落ち日に目を細めたママの目尻の皴、光の加減で少しだけ緑がきらめく榛色の瞳がきれいだった。
その奥行きを持ったスクリーンはいつだって光を拒まずに、なめらかな帯をいくつもその身に貫かせ、世界を白く、時に赤く染め上げる。夜を闇色にするのは光ではなく、光がないから世界は色彩という浮力を失って、すべて闇の底に沈んでゆくのだという。沈みっぱなしだと困るから、陽が昇ると世界に色が蘇って、浮かび上がって、そうして朝毎生き返る。朝陽が目に突き刺さって痛いのは、きっと生まれる痛みだ。
大気をいっぱいに満たす微細な水分たちは、理科の教師が教えてくれた砂鉄が磁気に吸い寄せられてうねるさまに似ていた。これが岬の真下で忙しなく岩を洗う、あの紺青の海と同じものだなんて信じられない。世界はときどき嘘みたいなことが起こる。
だって私には闇が見える。
ルネがスコップを放り投げた。ところどころ草木の根がむき出しの斜面を、ときどき石ころをカラカラと擦りながらスコップが滑り落ちてゆく。ルネは何も言わなかったけど、それは作業はおしまいのサインだと私にはわかった。彼はせわしなく息を吐いて肩を揺らしていた。まだ冬を抜け出して幾日も経っていない寒さのせいで吐く息は白いのに、それとは対照的に頬を林檎のように上気させているのがおぼろげに見える。額に浮いた汗が滴を作って頬を伝う。ここは燃えるような命の色をしたスクリーンではない。カラスだって巣に帰って深く眠りについている、早春の真夜中の冷たい森なのだ。湿った土のにおいがする、深く暗い緑をした森のなかで、ルネだけが、彼の命だけが静かに燃えている。
「帰ろう」
そう呟いた彼の声は少し震えていた。帰ろうと、呼びかけているにもかかわらず、その目は私をとらえてはいない。泥だらけのゴム長靴のつま先の剥がれかけたのを見つめながら俯いている。細かった雨が少し重みを増している。
「帰ろう」
汚れた手袋を乱暴に脱ぎ取って、ひとまとめにして先程のスコップと同じように放り投げると、白い布の塊は音もなく谷底に吸い込まれていった。私はそれを見つめたまま、何も出来ないでいた。黙り込んだままの私に痺れを切らして、ルネはこちらを向いて私の腕をとり、もと来た道を足跡を辿って戻ってゆく。
この森に置き去りにした秘密は永遠に秘密のまま、誰にも知られることなく消えてしまうのだろう。東の空が薄い墨色に染まり、厚い雲を朝陽が割り始めた。山をいくつか挟んだ遠くから、サイレンの音が歪んで聞こえる。全部が嘘のような明け方の森で、冷たいルネの手だけが真実だった。
あなたのことを愛していたよ、本当だよ。
しかし私はこの夕暮れのことをたいそう好いていた。いつか、霧のことを白くけぶる奥行きを持ったスクリーンと表現したところ、ママに笑われてしまった。彼女が肩を大きく揺らすのでティースプーンがカップに当たって紅茶が少しこぼれて、テーブルクロスに馬の蹄の形をした染みができた。ようやく笑いを抑えたころ、あんたは本当に誰に似たんだね、詩人にでもなるといいさ、と言って、西日のきつい窓のほうに首を向ける。落ち日に目を細めたママの目尻の皴、光の加減で少しだけ緑がきらめく榛色の瞳がきれいだった。
その奥行きを持ったスクリーンはいつだって光を拒まずに、なめらかな帯をいくつもその身に貫かせ、世界を白く、時に赤く染め上げる。夜を闇色にするのは光ではなく、光がないから世界は色彩という浮力を失って、すべて闇の底に沈んでゆくのだという。沈みっぱなしだと困るから、陽が昇ると世界に色が蘇って、浮かび上がって、そうして朝毎生き返る。朝陽が目に突き刺さって痛いのは、きっと生まれる痛みだ。
大気をいっぱいに満たす微細な水分たちは、理科の教師が教えてくれた砂鉄が磁気に吸い寄せられてうねるさまに似ていた。これが岬の真下で忙しなく岩を洗う、あの紺青の海と同じものだなんて信じられない。世界はときどき嘘みたいなことが起こる。
だって私には闇が見える。
ルネがスコップを放り投げた。ところどころ草木の根がむき出しの斜面を、ときどき石ころをカラカラと擦りながらスコップが滑り落ちてゆく。ルネは何も言わなかったけど、それは作業はおしまいのサインだと私にはわかった。彼はせわしなく息を吐いて肩を揺らしていた。まだ冬を抜け出して幾日も経っていない寒さのせいで吐く息は白いのに、それとは対照的に頬を林檎のように上気させているのがおぼろげに見える。額に浮いた汗が滴を作って頬を伝う。ここは燃えるような命の色をしたスクリーンではない。カラスだって巣に帰って深く眠りについている、早春の真夜中の冷たい森なのだ。湿った土のにおいがする、深く暗い緑をした森のなかで、ルネだけが、彼の命だけが静かに燃えている。
「帰ろう」
そう呟いた彼の声は少し震えていた。帰ろうと、呼びかけているにもかかわらず、その目は私をとらえてはいない。泥だらけのゴム長靴のつま先の剥がれかけたのを見つめながら俯いている。細かった雨が少し重みを増している。
「帰ろう」
汚れた手袋を乱暴に脱ぎ取って、ひとまとめにして先程のスコップと同じように放り投げると、白い布の塊は音もなく谷底に吸い込まれていった。私はそれを見つめたまま、何も出来ないでいた。黙り込んだままの私に痺れを切らして、ルネはこちらを向いて私の腕をとり、もと来た道を足跡を辿って戻ってゆく。
この森に置き去りにした秘密は永遠に秘密のまま、誰にも知られることなく消えてしまうのだろう。東の空が薄い墨色に染まり、厚い雲を朝陽が割り始めた。山をいくつか挟んだ遠くから、サイレンの音が歪んで聞こえる。全部が嘘のような明け方の森で、冷たいルネの手だけが真実だった。
あなたのことを愛していたよ、本当だよ。
2014/12/29
のばら 《2》
お目覚めかい、可愛い坊や。ようこそこの明るい世界へ。君は、そうだ、神の子とでも呼ぼうかね?これを聞いたらお堅い大臣がたは憤慨なさるかもしれないな、全く、真理を履き違えた××どもめが!ともかく、君は誇らしい、私たちの可愛い坊や。
さあ、蜂蜜入りの甘いミルクをおあがり。
僕の記憶装置の一番奥底にある音声データ、つまりは僕の最初の記憶、この身体が作動を始めた記念すべき日の博士の言葉。興奮のあまり早口で捲し立てていた博士の口からは唾が飛び(平素は穏やかな紳士である博士にしては珍しいことだ)、僕はその飛沫の軌跡ひとつひとつを視覚認識プログラムで追っていたので、後日そのデータを確認した博士はとてもきまり悪い思いをした。
ところで僕はこのとき、博士の研究のたまものであるプログラムを介して外界からの刺激を受容・記録することは出来たのだが、自発的な行動を取るまでには至っていなかった。人間の赤ん坊のように空腹や排泄を伝えるために泣き叫ぶこともしなかったので、充電が切れる頃になると次第に動きが鈍くなり、まるで人間が居眠りをするように静止してしまう。つまるところ、僕はよく出来た人形に過ぎなかったのだ。
博士の偉大なところは、僕をただの精巧な機械には作らなかった点にある。愚直なまでに人間を再現することに努めたのだ。博士の実力を以てすれば、たった一体で軍隊ひとつ潰せるような、まさに歩く百科事典のような、文明も英知も何もかもを収めたロボットを作れるはずである。しかし彼が半生を費やして生み出したのは、どこにでも居る、何の変哲もありはしない少年の姿をした機械だった。ボールが飛んで来れば咄嗟に避け、福音書を一読しただけで暗誦出来るような能力も無く、朝寝坊だってする。
博士以外の科学者たちや権力者たちが追い求めていたのは、間違っても僕のような、地球上の人口をひとり増やすだけに等しいロボットでは無いはずだ。人間が出来ないことをこなしてみせる、或いは人間が厭う事柄を処理してみせる――望まれた能力をインプットされたロボットが数多く生み出され、働き、もしかしたら誰かの手で優しく労られ慈愛を以て触れられ、そして終わりを迎え――分解されてしまう。ロボットという個体から部品へ、素材へ、成分へ、砕かれてしまう。
緻密に計算されたフォルムの、しかし大多数の人間に言わせるといささか懐古趣味であるらしい博士の邸宅兼研究所の隣人である侯爵家では、靴磨き専門の少年型のロボットが雇われていた。侯爵家の次男坊と然程変わらぬ背丈のそのロボットは、やんごとなき侯爵家の家人の靴を美しく磨き上げるべく設計され、そのように日々の労働に勤しんでいた。ロボットにしてはなかなかに恵まれた環境であるとは確実では無いか、侯爵の主催で誕生会など盛大に催されていた程であるから。その彼の悲劇ときたら突然であり、嵐の十一月に雷に打たれてしまったのだ。博士とのディナーの真っ最中に(メインはサーモンのクリーム煮であった)彼が担ぎ込まれて来て、清潔な白いダイニングには炭と火花と、恐らくは毒性の煙を発している回路の欠片が散らばった。侯爵は錯乱し、博士はナプキンを引きちぎる勢いで首もとから外して研究室に駆け込み、その後三時間は戻らなかった。
偉大なる僕らの博士が手を尽くした三時間にもかかわらず、落雷による衝撃で頭部がかち割れたロボットは、毎日靴を磨いていた両腕だけをそのままに、ほぼ炭の塊としてロボット生命を終えた。侯爵はその年のクリスマスにツリーのてっぺんに星を飾ることを頑なに拒み、明くる年のニューイヤーパーティーまでは少なくとも塞ぎ込んでいた。しかし彼は知らないのだろう、ご自慢のフランス窓に添えられたカフェカーテンの金具の一部が、かのロボットの耳を形作っていた部品であることを。
その後の僕があまりにも自分の耳を神経質に弄っていたために、疑似皮膚組織はすっかりぼろぼろになってしまい、博士を面食らわせてしまったことがあった。そのことについて博士に問い詰められた際、博士も僕をカーテンの金具にしますか、と訊ねてしまった。博士で無くとも、こんな問いを持ちかけられたら誰だって困惑するだろう、実際博士は首を傾げ口髭を引っ張るという意味の無い動作を繰り返していた。その末に与えられた回答は、君がカーテンの金具で無いことは確かだから、そんなことは有り得ないのではないかな、きっと、というものだった。
靴を磨けずカーテンの金具として収まってしまった彼と、何もせず何にもならないという自分が、同じ「ロボット」と呼ばれること。博士は僕が万能である必要は皆無だと僕に語り、最高の工学を駆使して平凡を生み出した。分かっていたのは、僕はカーテンの金具にはならないだろう事だけ。
のばら
人間はどうやら懲りずにまた戦争を始めたらしい。
有史以来のあらゆる科学技術を詰め込んだ爆弾をばらまいたところ、程なくして世界中は焼きつくされてしまい、事実上人類も多くの種の生物も絶滅してしまったのだよ、と博士は言った。では何故僕らはこうしてここにいるのです、この存在は絶滅を否定する条件にはなり得ませんか、と訊いたなら、というのもね斯々云々、いつものように専門用語を並べて説明を始めた。
このとき、僕が音声の羅列を聞き流しているのを博士はきっと知っている。
始めのうちは口を挟んで質問して、博士も細かく説いてくれたものだけれど、どうやら僕の首根っこに埋められたICチップはあまり性能がよろしくないようで、言葉は零れ落ちてしまう。出来損ないの僕は何度も何度も訊く、優しい博士は嫌な顔せず何度も何度も答えてくれる。博士の声はただいたずらに発せられるためのものではないのだから、いつしか僕は黙るようになった。頭が良くなったふりをして僕は頷く。「わかったよ、博士」。
嘘は駄目だと教えられたけれど、この一言で博士の柔らかい声が無駄に空気に消えることは無いのなら、これで良いじゃないか。博士は頭が良いから僕の嘘に気づいている、でも怒ったりなんかしない。「そうかい、坊や」と僕の頭を撫でて、困り顔で白衣の胸ポケットからダークグリーンの手帳を取り出して、何か書きつけるのだ。
僕は嘘つきで、博士も嘘つきで、二人ともが嘘をついて、僕たちはほんの少しの寂寥と穏やかな泥濘を感じながら生きていた。それが三日も前のことだった。
博士はいま、マホガニーのデスクに突っ伏していた。
いいかい、今日から君の身体に充電器は必要が無くなったんだ。1時間だけ太陽を見つめるだけで24時間は不自由なく動けるはずだよ。あいにく検証の時間が取れないけれど、改良は成功したのだと信じている。ああ、もっと時間があったならば、この喜びを分かち合ったというのにね。残念だ、実に、残念だ‥‥
デスクから顔を上げてそう一息に言うと、博士は目と唇を閉じて深呼吸をした。柔らかい口髭がむにゃむにゃと動く。これは眠くなったときの癖。博士はおとといから眠らずに僕の体をいじっていたのだから、そりゃあ眠いだろう。眠いとICチップに電流が流れにくくなって、スムーズに動いたり判断を下したりが出来なくなる。おまけに、まぶたを引っ張り上げている特殊ゴムの働きが弱くなって、終いには目が閉じてしまうのだ。
坊や。私はもう眠りに就くけれど、君にはもう就寝時間なんて必要が無いだろうから、気が済むまで遊びまわると良い。こんな時まで私の、いや、人類の我儘に付き合う必要はないんだ‥‥でもね、この愚かしい瓦礫の上を平気な顔をして君が歩けるのなら、それだけが、我々の唯一の成功なんだろう。――ホットミルクを作ってくれないかい?それくらい、罰は当たらないだろう。
僕が作るホットミルクを、博士は美味いと言って飲んでくれるのは毎日の楽しみであった。だから僕は喜び勇んでドアに向かう。博士はいつもと変わりない笑顔を浮かべたけれど、ここ数日で博士の容貌は変わってしまっていた。
髪も口髭ももっとふさふさとしていたのだけど、今はしんなりとして、しかも鳶色からくすんだ白になっていた。博士はスポーツ好きな人であるから、顔は日焼けしてそばかすが点々とあったけれど、それに加えて青紫の痣がいくつか浮くようになった。歳をとると人間の外見は変わるというけれど、博士は随分と短い間に老けこんでしまった。
栄養豊富なホットミルクを作りますので、待っててくださいね。少し時間がかかるけど。
キッチンは廊下に出て右に行けばすぐだけど、あいにく牛乳は屋敷の外の「ちょぞうこ」にしか置いてない。食糧が汚染されないように、少し離れた銀色の頑丈な「ちょぞうこ」から必要最低限だけ持ち出して、汚染されないうちに食べきるのだ。もっとも僕には食事は必要ないから、これは博士の食事のための措置だけど。
博士が再びデスクに顔を沈めたのを見届けて、僕はドアを開けた。ここ数日で黄ばんでしまった壁紙が続く廊下を、ぽてぽてと歩く。皮膚に若干の鋭さを感じるのは気温が低いからで、暖房に電力が供給されなくなったのだとわかる。
玄関ドアを押すと、ちりちりとベルが揺れて鳴る。この音を聴くのは久しぶりだ。
晴れた日の冬の空気は張りつめていて、ひりひりと、寒さのせいだけでは無い鋭さを持っていた。
有史以来のあらゆる科学技術を詰め込んだ爆弾をばらまいたところ、程なくして世界中は焼きつくされてしまい、事実上人類も多くの種の生物も絶滅してしまったのだよ、と博士は言った。では何故僕らはこうしてここにいるのです、この存在は絶滅を否定する条件にはなり得ませんか、と訊いたなら、というのもね斯々云々、いつものように専門用語を並べて説明を始めた。
のばら
このとき、僕が音声の羅列を聞き流しているのを博士はきっと知っている。
始めのうちは口を挟んで質問して、博士も細かく説いてくれたものだけれど、どうやら僕の首根っこに埋められたICチップはあまり性能がよろしくないようで、言葉は零れ落ちてしまう。出来損ないの僕は何度も何度も訊く、優しい博士は嫌な顔せず何度も何度も答えてくれる。博士の声はただいたずらに発せられるためのものではないのだから、いつしか僕は黙るようになった。頭が良くなったふりをして僕は頷く。「わかったよ、博士」。
嘘は駄目だと教えられたけれど、この一言で博士の柔らかい声が無駄に空気に消えることは無いのなら、これで良いじゃないか。博士は頭が良いから僕の嘘に気づいている、でも怒ったりなんかしない。「そうかい、坊や」と僕の頭を撫でて、困り顔で白衣の胸ポケットからダークグリーンの手帳を取り出して、何か書きつけるのだ。
僕は嘘つきで、博士も嘘つきで、二人ともが嘘をついて、僕たちはほんの少しの寂寥と穏やかな泥濘を感じながら生きていた。それが三日も前のことだった。
博士はいま、マホガニーのデスクに突っ伏していた。
いいかい、今日から君の身体に充電器は必要が無くなったんだ。1時間だけ太陽を見つめるだけで24時間は不自由なく動けるはずだよ。あいにく検証の時間が取れないけれど、改良は成功したのだと信じている。ああ、もっと時間があったならば、この喜びを分かち合ったというのにね。残念だ、実に、残念だ‥‥
デスクから顔を上げてそう一息に言うと、博士は目と唇を閉じて深呼吸をした。柔らかい口髭がむにゃむにゃと動く。これは眠くなったときの癖。博士はおとといから眠らずに僕の体をいじっていたのだから、そりゃあ眠いだろう。眠いとICチップに電流が流れにくくなって、スムーズに動いたり判断を下したりが出来なくなる。おまけに、まぶたを引っ張り上げている特殊ゴムの働きが弱くなって、終いには目が閉じてしまうのだ。
坊や。私はもう眠りに就くけれど、君にはもう就寝時間なんて必要が無いだろうから、気が済むまで遊びまわると良い。こんな時まで私の、いや、人類の我儘に付き合う必要はないんだ‥‥でもね、この愚かしい瓦礫の上を平気な顔をして君が歩けるのなら、それだけが、我々の唯一の成功なんだろう。――ホットミルクを作ってくれないかい?それくらい、罰は当たらないだろう。
僕が作るホットミルクを、博士は美味いと言って飲んでくれるのは毎日の楽しみであった。だから僕は喜び勇んでドアに向かう。博士はいつもと変わりない笑顔を浮かべたけれど、ここ数日で博士の容貌は変わってしまっていた。
髪も口髭ももっとふさふさとしていたのだけど、今はしんなりとして、しかも鳶色からくすんだ白になっていた。博士はスポーツ好きな人であるから、顔は日焼けしてそばかすが点々とあったけれど、それに加えて青紫の痣がいくつか浮くようになった。歳をとると人間の外見は変わるというけれど、博士は随分と短い間に老けこんでしまった。
栄養豊富なホットミルクを作りますので、待っててくださいね。少し時間がかかるけど。
キッチンは廊下に出て右に行けばすぐだけど、あいにく牛乳は屋敷の外の「ちょぞうこ」にしか置いてない。食糧が汚染されないように、少し離れた銀色の頑丈な「ちょぞうこ」から必要最低限だけ持ち出して、汚染されないうちに食べきるのだ。もっとも僕には食事は必要ないから、これは博士の食事のための措置だけど。
博士が再びデスクに顔を沈めたのを見届けて、僕はドアを開けた。ここ数日で黄ばんでしまった壁紙が続く廊下を、ぽてぽてと歩く。皮膚に若干の鋭さを感じるのは気温が低いからで、暖房に電力が供給されなくなったのだとわかる。
玄関ドアを押すと、ちりちりとベルが揺れて鳴る。この音を聴くのは久しぶりだ。
晴れた日の冬の空気は張りつめていて、ひりひりと、寒さのせいだけでは無い鋭さを持っていた。
2013/10/21
こねこのはなし
そんな 私にも 地獄はやってくるのでした
地獄のような 夕暮れが 人びとの目を焼き 世界を赤く染めました
何にも 見えていない目は 焼いてしまいましょう
そう言った こねこの目には なみだが浮かんでいました
そのなみだは とてもとても美しかったのですが 目を焼かれた人びとには 何も見えませんでした
人びとの目は もう 美しいものをみつめるためのものでは無かったのです
美しい思い出だけが 人びとの心のなかで 赤いひかりのなかで くるくると きらめいては 消えてゆきました
消えてゆきました
誰もいなくなった 丘のうえで こねこはひとり なみだを拭きました
あと何回 ひとりぼっちでなみだを流すのでしょうか あと何回 地獄をみつめなければいけないのでしょうか
そのことを考えると こねこはいつも 途方もない気持ちになります
夜がやってきました
こねこは夜のことがとても好きでした 自分のからだのさかいめもわからないのに 星だけは 煌々と輝くのです
南の空に ひときわ光る星がありました 光の早さで 三億年のかなたにあるといわれる星です
この星は 少しずつこちらに近寄っていて いつかここを飲み込んで焼き尽くしてしまうのだといいます
こねこは その日を 待っているのでした
美しい夜の空をみつめ 魅入られて いつしか眠りにつき 夢を見ます いつかやってくるそのときに 今までに目にした人びとと同じように ありったけの美しいことを考えながら からだを焼かれるように そのための練習を毎日くりかえしているのでした
こねこはもう 数えきれないほどの夜を過ごし 数えきれないほどの地獄の夕暮れも過ごしました
美しいことってなんだろう?
こねこはときどき苦しくなります それでもまだ まだまだ 星はやってきません なみだで星がぼやけて 少しだけ大きく見えます
こねこは眠くなってきました
丘のうえに横たわり きのう見たたんぽぽの夢を思いながら まぶたがだんだん閉じてゆきます 地獄の夕暮れに焼かれるときの練習です
星に祈りながら 眠りに落ちてゆきます 平和な朝日がのぼるまでの 呪いの時間です
こねこが南の星に飲み込まれるまで 果たしてこねこの目は 美しいものを映し続けていられるでしょうか そんなことは 誰も知りません
知っているのは 南の星だけ 光の早さで三億年のかなた
おしまい
2012/11/06
ラブレター
友情か?愛情か?関係性のあいだにこの問いが生じることによって初めて限界は生まれる。括り、区分、グループ。何らかの集団に含められることには、否応なしに順列の付与が行われ、二者の純粋な存在は許されない。関係に名前がつくというのは、そういうことなのだ。
ラブレター
誰より愛されることを望んでいるのではない。「私にしか許されない愛されかた、そして愛しかた」。ただふたりが存在して、そこにある。それだけのことが、なぜこんなにも難しいことか。外から押しつぶされて、破けた膜から溢れ出たシロップは、世界に希釈されて何ものでもなくなる――或いはありふれたものになる。とうに擦り切れた名を宛がわれた、もはやシロップの甘さなど微塵も残らぬもの。
初恋は実らないという。は-つ-こ-い というからには、他のあらゆる感情と区別された恋愛感情をそれとして認識、そう初めて認められた情念を指す。
「他のあらゆる感情と区別された」――これが初恋とは何たるかを語るにおいていっとう厄介なものだ。親愛、友情、憧憬、こういった類の気持ちに優劣などなく、おおむね好意をもって感ぜられる心情の一群は、ひとつひとうに名前があるのに、その実体ときたらひどく曖昧なものだ。名前という名の透過性の薄い膜に包まれた感情は、棘をひとさしするだけでたちまちに流れ出てしまう。
恋、友情、悲哀、厚意、憧憬、恋。甘いシロップも、苦いアルコールも、頼りない膜を破り漂い始めた途端に味を失う。
私たちはその名を愛しているかもしれなかった。関係に名前を点けなければ終わりなど来はしないから。
ベイビーピンク
薄く繊細なレースの天蓋のなかで、あのこはうなされておりました。まっさらな、清潔なリネンの敷かれたベッドにその身体を沈ませて、喉の奥から掠れるような息を吐き出して、薄い胸を上下させているのでした。その小さな額に載った水を含んだガーゼはすっかり温くなってしまい、ガーゼをよけたそこだけがふだん通りの白く透き通るような涼しい色をしていて、目もと、鼻、あご、首筋・・・至るところから汗が噴き出しているありさまでした。三日前に突然熱を出したあのこは、寝ても覚めてもうなされ、目眩がして光が刺さるようだというからずっと目を伏せたままで、ひどい風邪をひいた時のように鼻を詰まらせ息苦しく、ろくに食事を摂らず、時たま檸檬水で湿らせる程度の喉は干付いてヒュウヒュウと空気の通る音がするだけでした。
八つ折りにしたガーゼを広げ、桶で軽くゆすぎ、冷凍庫から取り出したばかりの氷のいくつかを包みます。そうして冷たさが布地を通り越して伝わったならば、もう一度軽くゆすぎ、きつくきつく、絞り上げます。広げて皺を伸ばしたガーゼをまた畳むのです。今度は四つ折りにして、少しだけ幅を持たせ、そうっとそうっと、目隠しのようにまぶたの上に載せたのでした。
(可哀想に、あのこはまぶたを挟んだ向こうが暗くトーンを落としたのにも気づかないふうでした。相変わらず苦しげに呼吸を繰り返して、肌から汗を滲ませて、それだけ。熱のせいでいっそう赤味を増した、その薄い唇の隙間は、闇でした。宇宙、星を散らすどこまでも暗く孤独な空間、そのかなたから響く声。狭まった口峡の向こう、掠れて渇いた音が漏れて、眩い外の世界へと抜け出そうとして、あのこの呼気によってまた引き戻されてしまうのです。光には、粒子としての性質があるといいます。あのこの胸がゆっくりと膨らむとき、真っ暗で閉じた肺の内側では光の粒が、空気を含んでいっぱいに爆ぜているのでは無いかと私は思うのです。とっぷりと更けた夜に点ける線香花火のような火花が、何十も何百も、パチパチと。肺の内側にその消し炭がこびり付いてしまったので、きっとあのこはこんなにも苦しげに息をするのでしょう)
あのこのまぶたに載せたガーゼに、淡い黄色を見つけたのでひとつ摘まんでみたらば、それは酸味を帯びた香りがしました。檸檬の果汁を湛えた砂じょうでした。それは白いガーゼのあちらこちらに付着していて、あのこの鼻梁の脇にもひとつ落ちていました。どうも私は井戸から汲み上げた洗い物用の水を水差しに注ぎ、喉を潤すための檸檬水を桶にあけてしまったようで、鏡台に置いた桶に張られた水をのぞき込むと、なるほど檸檬の皮の削りかすと破けて果汁を逃がした膜が浮いているのでした。果汁を包み込む役目を失い、あとは干乾びていくだけの抜け殻ほど虚しいものもそうそうありません。存在意義とかいうものを持たぬのに、物質としての形は残してしまっていることの不思議さときたら。
とにかく砂じょうをひとつひとつ摘まみ上げ、檸檬まみれのあのこの顔をどうにかせねばなりませんでしたから、ひと粒ひと粒、人差し指と親指の腹で丁寧に取ってやりました。病人の顔に何度も触れるのは気が引ける思いでしたが、視覚はおろか触覚まで鈍ってしまっているのかあのこはちいっとも反応しませんでした。いやにつるりとしたセルロイドの人形を振り回して遊んでいるのに、今ではあのこのほうが人形のようです。ベッドに沈んでいる姿が当たり前のようになってしまって、こうなるより以前、三日よりも前のあのこの生活はずいぶん遠くに感ぜられます。あのこは生まれた時からずうっとベッドに沈められたまま大きくなったのだったかしら。どんな歌を覚えて口ずさんでいたか、どの花を好んで摘み取って来たか、茶髪よりも金髪の人形を贔屓にしていたか、オムレツとガレットどちらが好きだったかしら、利き手は、目の色はグレーだった‥‥ああ違った、それは私のことでしたね。
ふいに風が強く吹いて開け放たれた窓に垂れたカーテンを大きく巻き上げ、その風はこちらまで届いて天蓋のレースを軽く揺らしました。繊細なレースの網目の向こうで、夏の日差しが踊っているのが見えました。窓際に生けられた華やかな大輪の淡いピンクのバラがいくらか花びらを散らして、ベッド脇の椅子に腰掛けていた私の足元に落ちました。拾い上げた花びらは、先がうっすらと茶色く滲み始めていました。その控えめな色合いに相応しく、肺いっぱいに空気を吸い込んでやっと分かるくらいの甘い香りのその花は、あのこの一番のお気に入りです。あのこのいっとう困った性癖というのが何でも口に含むというもので、黙って愛でるのでは飽き足らず、この花が一番味がよいと言ってきかないのでした。ベリージャムに似ているとも言いました。
花びらの、枯れ始めの乾いたところでそうっとあのこの口を撫ぜてやります。あれほど好んでいる花がくちびるに触れる感触も、控えめな香りも、何ひとつとしてきっと認識できないのでしょう。確かにあのこの身体はここにあるのに、これは花の香りに鼻をひくつかせることも繊細な花びらの縁取りに見とれることもせず、くちびるの隙間に宇宙を抱えているのです。宇宙に散らされた花は果たしてその姿を保っていられるのか、そんなことがふいに閃いたので、薄く開いた口にスルリと花びら一枚を滑り込ませました。透き通るエナメル質で覆われた永久歯に引っ掛かる感触ののち、それは宇宙に、広大な宇宙に漂う塵として放り込まれたのです。しぼんでしまうの?灼けて炭も残らないの?時間ごと氷づけにされるの?ああ棘が霜で覆われるさまを見たかった、花びら一枚なんてけちくさいことせずにまるまる一輪にすれば良かった。
幻想に胸を高鳴らせているあいだにもあのこは身動ぎひとつしないので、ちょっと調子に乗って指先を宇宙の入口に這わせてしまいました。これがいけなかったのです。ググ、と潰れた声の震えが指先に伝わり、そしてあのこは盛大にえずき始めました。人間の反射神経に押し返された手には当たり前ですが唾液がべったり付いていて、それを認めた次の瞬間にはあのこの左頬を思いっ切り叩き飛ばしていました。咄嗟のこととはいえかなりの力だったので、あのこの上体は跳ねてベッドから浮いて、仰向けから若干横向きになった身体はまた沈みました。グレーの両目がこちらをじっと見つめています。衝撃で顔を隠していたガーゼが何処へか飛んでしまったため、はからずも目を合わせることになったのです。あのこは何が何だかさっぱり分からぬといった表情で浅い呼吸を繰り返しながら、口元を金魚のように戦慄かせています。わずかにのぞく歯茎と歯の根元、舌に貼り付いたのであろう花びららしき影。それはただの口でした。宇宙なんてどこにもなかったのです。間抜けな顔をしたあのこがいつも通りにそこにいるだけでした。
コンピューターシティ
この世界は僕たちを覆うように出来ていて、それは脳が行う処理が及ぶ範囲という概念的な意味もあるし、より分かりやすいのは空間移動で直接感じる物理的な意味でもある。グローバルだとか宇宙開発だとか外に出たがる僕たちは、誰も自分たちが閉じた場所にいるだなんてあまり思わないけれど、僕たちは領域に無意識に依存しているのだろう。まやかしかもしれないこの世界だってひとつの領域であり、きっとそれが領域たるものの最上階層に位置しているとこれまた無意識に思い込んでいるのだ。産み落とされた僕たちはこの世界に覆われて、その内部で個別に新しい領域を創り出して組み合わせて引き離して、それは死ぬまで続く。死後はどうなるのかなんて人類が知能に目覚めて以来ずっと考えられているけれど、誰ひとり答えは出せていないなんて驚くべきことだ。きっと世界は僕たちにはすべてを見せてはくれない、すべてはそうなっている。だから宇宙の果てにはいつまでも追いつけないし、神というものだっていくつも存在するし、僕たちは謎を解く毎日なのだ。世界は完璧な計算で作られているのだ。
「僕たち」とは言うけれども、ヒトの形をした自分以外のこれらが僕と同じものという保証はない。もちろん顔や体型が全く同じだとかいう話ではない。そこに見えるものはまやかしという可能性もあり、触れたと思った感覚は触覚がエラーを起こしているのかもしれないし、んなことを悩んでいるのは世界で僕ただひとりかもしれないし、僕と他のものの境目だって曖昧な気がしてくるし、そもそも世界が何なのかなんて考え始めたら頭が煙を上げそうになる。
でも君と僕とは違うんだ。だって僕は君のことを理解できないんだから。
君の存在を僕の脳は理解できずに、内側から崩れて溶け出して
だから、僕たちふたりは違うんだって分かる。
これはきっと計算外なんだと、僕は、思う。
『コンピューターシティ』 Perfume
きっと普通に生きて死ぬ
命というこの世でいっとう不可思議なからくり仕掛けの、動物を動物たらしめる赤味を帯びた闇をつるうりとくぐり抜けて、ぼたりと重たい音とともに産み落とされる。したたかに打ちつけたことで弾け散った臓物のかけらは、いつか流しに捨てた黒すぐりのゼリーに似ていた。煮詰められた濃密な黒の膠質から滲んだ、いくぶん水っぽい赤。背中から神経を通じて伝えられる衝撃はあらゆる胞を揺さぶり弾けさせ、繊維の束を駆けてゆく電流、檸檬ソーダの気泡が爆ぜたような微細なふるえは手足の末端まで。
そうして気道はこじ開けられてしまった。それは私がいちばん初めに境目を失い、そして世界に触れた瞬間だった。
ひとつ、ふたつ、呼吸のたびに私と世界の純度は失われてゆき、何でもない、名によってその存在を仮初めに分かたれたものの集まりに近付いてゆく。どこまでも私であったはずの身体から、肺を膨らましていた空気が膜の仕切りのない世界、圧倒的なあまりに広大な、際限なく膨張し続ける世界へと押し出されてたちまちのうちに霧散する。身体という器に収まっていたときにはあんなにも私のためのものであったのに、打ち消されて霞んで散り散りになるのは儚い。
代わりに肺を満たす世界は、いくぶん比重のあるものだったので少しばかりその重さが堪えた。煙草の灰、ダイヤの削りかす、カップにこびり付いたマドレーヌ、それは何でもないと同時にありとあらゆるものあり、私の身体を鈍く沈ませる働きをする。異質なもの同士が流入し合うことで損なわれてゆく純度、それは全てを等質に、均一にすることを意味していた。
お気に入りの洗剤の匂いがすっかり染み付いたタオルケットにくるまり、固い床に横たわって月を眺めていると、ひとが自我と呼ぶものが色彩と味と香りを失って急速に希薄になってゆくのを感じていた。夜が私に嘘をついたことはたったの一度もなかった。世界じゅうが眠りに就いて夢のにおいが立ち上るとき、そのときだけは、もう手の届かぬ過去のかなたを思い返すのと同じくらいの穏やかさをもっていられるのだった。
蓄積された過去を掬い上げようとそこに手を差し込むと静電気のように微弱な痺れが走るのを、いつも気付かないふりをしている。記憶の揺らぎはいつだって同じ光景を連れて来る。
地底から溢れたマグマの色をした西の空を背にして、誰かがこちらへと振り返る。誰の顔なのか、どんな顔なのか、男か女か、逆光のために何ひとつ窺うことが出来ぬけれど、何がそんなに楽しいのと問いかけたくなる口元だけは忘れられないのだ。その口元以上のことを知ろうとしてはいけない。思い至った途端に輪郭はぼろぼろと崩れ落ちてしまうから。燃えるような朱色に透けた髪、起伏にしたがい影を作る黒、ちらりとのぞく真珠のように白い歯。水性のインキで描かれた絵を雨で濡らしたかのように、少しずつぐずぐずにちぎれて色彩が滲んでゆく。姿かたちは意味を持たなくなり、濃淡を帯びた色のかたまりに覆われて、やがて闇がやって来るのだった。
そしてその美しさは何よりも真実であったし、永久に変わらないものでもある。私が過去と呼ぶものは退色も腐敗も風化もありえぬ、しかし冷凍保存された遺伝子やピンで留められた標本たちの不自由さからは解放されている。たしかな熱を持ち、いのちの躍動をもって跳ねまわることの許される、裏切りを知らぬものたち。
変わらずにあることは尊い。しかし転回を繰り返すこの世界において不変であることは困難で、それ以上に悲しさを伴うものだった。嵐の海でかたくなに碇を底に下ろしたまま夜を過ごすように、すっかりぼろになってしまったお気に入りの靴で頼りなく立ち続ける。浜辺に忘れられた砂の城が波をかぶり、端からじりじりと削られ、しまいには砂粒に還っていくのを見つめていた。全てが浸食し合うことで何もかもが空白に、あるいは混沌に染まっても、それだけはいつまでも美しいに違いないと思われた。
そして残ったものだけを抱えてごろりと横たわり死を待っている。それはもう世界を手に入れたも同じことだった。そしてそれは何があっても失われることはない、決して。
涙を流しながら唄を歌うのは、生まれてこのかた初めてのことだった。伸びがあるとは決して言えない、喉をちりぢりにすり減らしてしまうような潰れた声が這いずり出てきた。肺に棲みついた漠とした薄暗さが確かなかたちを持ち始め、その両の手で私を内側からトカトカと打つ。慟哭に時おり跳ね上がる胸。そのたびに唄はぶつ切られて、意味を為さない掠れた呼気に還って吐き出されてしまう。涙を流させているのも、唄を歌わせているのも、からだ全体を震わせるほどにしゃくり上げさせているのも、何もかもが肺のうちの陰鬱な泥海だった。
開け放たれた北向きの窓から、底抜けに澄んだ青空が見える。その眩しさが部屋をよりいっそう暗くさせて、自分は深い井戸の底でうずくまっているかのような錯覚を覚えるのだった。
ふいに世界は無音でなくなった。蝉が鳴いている。かなしい、かなしい七日間の始まりだった。
2012/11/04
アグリモニー
ママが71回目の家出をしたというので、今夜はレトルトパウチのカレーにしようと声をかける。グリーンカレーの煤けたような緑とバナナスムージーの寝ぼけた黄色のことを考えているのだろう、彼女の生返事がフンンと鼻から抜けていく。
グリーンカレーにはバナナスムージーと決まったのはいつのことだろう。
この街はいつも薄くけぶっている。雨の予報が出ていた。
その切っ先でもって現代を少しだけ突き抜けて近未来の夢をみる、ガラスとコンクリートのビルディングがひしめく市街地は、硬質で冷たい四角で構成されていた。丹念に磨かれた窓ガラス、それらが隙なくはめ込まれた淡い銀のサッシ、それらが縦横に連なって、四角をひとまわり大きい四角が延々と囲んでいく。その連続がいきなり途絶えたところに、はじめて空がある。ビルとビルの隙間、鉄筋を込めたコンクリートのうちに取り込まれることを辛うじて逃れている空白を見つめていると発狂する者が現れたのはここ数年のことだ。ふと何気なく空を見上げてからみるみるうちに青ざめて叫び出す者もいれば、神経を尖らせながら空に目を遣っては逸らすといったことを繰り返すだけの者もいて、幻覚を訴えるケースもあって、それは年々増えているのだった。症状は多様であれど彼らが口を揃えて言うには、その自然のままの真っ青な空に何も無いことが怖ろしいということだった。
鼻の頭を黒くした煙突掃除の少年が消えた代わりに、世界には煤けたねずみ色の建物が増えていった。どんなにからりと晴れた夏の昼間でも、見上げると青よりも灰色の割合が多い。夏になるとママは雨が降らないのに傘を差すので、空とビルの境目がわからなくなってしまったのだと思って彼女の不幸を嘆いたことがあった。僕をなだめながら「目に見えないものが降り注いでいるのよ」とママは言った。その傘は繊細なレースがあしらわれていてたいそう美しいものだったけれど、どうにも好きになれなかった。子どもの妙な反感を拭い去ることを待たずにその傘とはさよならをすることになる。雷が落ちてしまったのだ。十年に一度と言われたひどい嵐の晩、ベランダの真ん前のポプラの枝にぐしゃぐしゃに泥水を吸い込んだハンバーガーショップの紙袋が引っ掛かり、放っておけばいいのにママは傘の先でつついてどかそうとした。そこに雷が落ちてきたというわけだ。コミックのように、光のまたたきのなかで骸骨が浮かび上がることはなかったけれど、サロンで整えてもらったばかりの頭から煙が立って、アイロンで肘を焼いてしまった時の匂いがした。ママは淑やかな女性とは言い難かったけれど、それでもあんな金切り声をあげて狂人のように跳ね回るなんて。そのさまはそれはそれはひどいものだった。
こうして高台から見下ろすと、確かな意志をもってこの街は作られているのだと思うことがある。僕たちには読み取れないやりかたで、倒れることのないジェンガを黙々と積み重ねているのは誰だろう。
もう夕方の5時だった。濃くなり始めた霧がふもとの街を覆ってゆく。世界じゅうの水分が漂うことも出来ずに淀んでうねっているように見えて、雨季の黴臭さを思い出してちょっとばかり嫌な気分になる。皮膚にひび割れをもたらす冬も、熱にのせて水気を吸い上げてしまう空の夏でさえ、この街は夕暮れ時には必ず霧が出る。僕が知る限りではいちばんの年寄りである元教師の老人は、彼がうんと小さかった頃からそうなのであって、ちいっとも変わらないという。太陽と一緒に昼の温みが地平線の向こうに引けていって、入れ替わるように霧が浸み出してはあたりに満ちる。それは帰りの合図だった。霧に道を隠される前に家に帰らねばならなかった。
僕たちの世界のなめらかな丸、キャンディとドーナツでいっぱいのガラスの器、個体に触覚が備わっていることが無意味に思えるようなそれら。
彼女と夜中のダムに出かけた時のことを思い出す。つま先がほんの少し剥げた安物のゴム長靴を履いて、泥に足を取られまいと小走りで冷たい雨のなかを進んだ。僕と彼女だけが知っている秘密、いつか二人が冷たい土の下に埋められる時が来たら永遠に誰にも知られることのない秘密。何だって秘密とはこんなにもくすぐったいのか、歳をいくつ重ねてもわからない。いや、それを悟ったときに僕は死ぬのだと思う。彼女もだ。秘密の不可思議さを解いてしまったらもう命を許されるはずなどないから。
僕は過去を愛していた。僕は僕の頭のなかの、僕のための美しい思い出だけを愛していた。
そうして気付いた。私は夢を叶えてしまっていた。