2024/12/08

箱根

 箱根に行ってきた。あれほど名高い観光地であるものの、その名にちなんだ入浴剤のパッケージのイラストと、駅伝をテレビで観るぐらいしか接点のない、箱根だった。

 観光というよりも、ラリック美術館とポーラ美術館をメインに、天気次第ですすき草原を考えて宿を仙石原に取った。「知らない山で、閉じている」がテーマだったので、この選択はベストであった。
 仙石原はチェーン店が少しと、地元の小さな飲食店がポツポツ。路線バスはまめに走るので便利な土地である。観光地というよりは古くからの保養地としての性質が強く、住民と観光客の住み分けが明確な印象だった。民家や個人商店が並ぶ小道を抜けた途端に、生活感の薄い硬くつるっとした保養所や研修施設が整列している。山の中に都内の新築分譲マンションをいったん置いてそのまま忘れてしまったみたいな、半分嘘っぽい景色が広がる。”The Backrooms “とタグ付けされるタイプの動画をリアルに楽しんでいるかのような浮遊感があった。

 仙石原は羽田空港から高速バス1本で行けるというのが良かった。小田急ロマンスカーも捨て難い魅力があったが、キャリーケースを転がしながら新宿駅までの移動というのがハードルが高い。私はくまさんやうさぎさんがいる山で育ったので、ターミナル駅が怖いのだ。都内の鉄道を利用する時は、乗り換え回数が多少増えようが小規模な駅を挟むことさえある。あと単純にバスのことが好きなので、高速バスを選んだ。バスの窓に打ち付けられた霧の粒が集まって、滴になって流れていくのを3時間眺めていたら着いた。私はバスの窓を見ている。景色ではなく窓。

 宿はホテルコンドミニアムという形式で、開業1年未満のためとても清潔であった。全客室がかなり広めの作りになっていて、キッチンと洗濯機を備えた部屋を選んだため、旅行というよりは引越しをした気分だ。身ひとつで入居し、手配した荷物が届くのを待っている…大涌谷の蒸気が揺れるのをバルコニーから眺めながら…。洒落た建物は入口から芳香を漂わせている。花とミルクを混ぜたような香りにゲストを取り込んで、何か別のものにしようとしている。そして作り替えた何かを宿の外に放っているのだ。
 私は2泊以上の旅では洗濯をするのだが、コインランドリーの待ち時間が苦手だ。旅行中の貴重な1時間弱の間に何か用事を果たしたくても、帯に短し襷に長しというか、とにかく半端なのである。食事や入浴には短いし、かといって館内散策には長すぎる。部屋で大人しく過ごし、そろそろ終了かと様子を見にいくと残り10分もあったりする。あと洗濯中に着られる服が備品のパジャマしかない問題。選んだ客室にはパナソニックのキューブルが備え付けてあって、持参した洗剤(弱アルカリ性1回分、中性1回分、酸素系漂白剤2回分)で快適なランドリー・ライフであった。自宅にはとても置けないような立派な機種なのだが、これが初めてでも直感的に操作しやすくて良いものだなと思った。

 ところで私はかなり目が悪いのだが、最近の洒落た建築物について困るのが、暗いということだ。とにかく照明の光量を絞っていて、かつ内装も艶消し仕上げで反射がないため、わずかな光を建物が吸収してしまう。ゲストフロアの廊下は、客室ドアのキー部分にだけスポットライトが当たるように調整されている。雰囲気は好きなのだが、職業柄、実用性を気にしてしまう。掃除の時くらいは明るくするのだろうか…。

 まとまった雨は2日目朝まで、との予報は後ろにずれにずれ、まともな晴天は最終日だけであった。宿から徒歩すぐのラリック美術館は朝9時の開館ダッシュの勢いで楽しみにしていたが、雨雲レーダーにはずっと青色がへばりついている。植栽が雨に打たれるのを眺めながら、朝食の豆のスープを口にしていた。朝食で一番よく食べたのは、自家製ハムに地場産蜜柑のドレッシングをかけたもの。私は地元食材という言葉に弱い。あと野菜のグリルにベーグル。私はかすがこぼれるのが嫌で、パンは焼かずに食べる。

 ラリック美術館は、団体客とかち合ったために多少の賑やかさがあった。あらかじめ予約しておいたオンラインチケットで入館してから気づいたのが、紙のチケットという形に記念品が残らないということ。旅先の路線図やパンフレットや、美術館のチケットやリーフレットを取っておく用のバインダーがあるのだが、そこにそっと差し込むチケットがないことに、少しの寂しさがある
 企画展「ラリック×ダンス」の説明にニジンスキーの名があったのが訪問の主たる動機だが、結局いちばん印象に残ったのは、展示作品ではない、壁に埋め込まれた葡萄の意匠のガラスなのであった。淡く霧の中で形作られたような粒の葡萄を見つめていると、自分もガラスとエマイユでできているような気分になる。

 ポーラ美術館に寄るバスに揺られて、強羅の地形のダイナミックさに目を白黒させていた。とにかく傾斜がきついので常に身体が前のめりで、更にはヘアピンに次ぐヘアピンで頭を左右にブンブン振られる。私はこの道を自分で運転する自信はない。
 ここはとにかく建物が素晴らしいとの事前情報を持っていたが、実際に目にすると圧倒される。自然を活かした建築とはよく言うものの、これ以上のものはなかなか無いだろう。天窓から降り注ぐ光と雨。吹き抜けのなかを飛んでいるかのようなエレベーターの連続は、美術館というよりはデパートを思わせる。でも、地下だ。私は地下室に憧れがある。閉じている気がするから。

「フィリップ・パレーノ:この場所、あの空。」
 映像作品『マリリン』を2.5周した。0.5は、途中から展示室に足を踏み入れたからだ。この作品を文章だけで説明するのは私には難しく、備忘録として感想を記しておくことしかできない。
 ・ 自分の中にある実存主義的なものの見方をより補強した。客室からカメラが引き続けてスタジオ全景を映し出し、観客である自分を通り越して、中庭のあれが現れた時の「お迎えが来た」感。
 ・ これを見た日が雨でよかった。夢想は続く。
 ・ 映画『サイトレス』を思い出した。


 ポーラ美術館から出てもまだ雨は降り続いていた。どこか晴れ間を見つけて仙石原すすき草原のなかを駆け抜けるというミッションを設定していたのだが、これは諦めるほかなかった。傘も合羽も靴カバーもあるが、そういうことではないのだ。乾いた風に吹かれたすすきの穂がざわめいて、私を誘い込んで散り散りにしようとするのを見たい。雫に濡れて頭を垂れる穂を見たいのではないのだ。

 またいつかの秋に。