2025/07/03

6月の新潟

  脳がインターネットに直結してるんじゃないかってくらい、毎日がインターネットすぎる。出かけても、家で休んでいても、インターネットだ。強制的に圏外に身を置くしかないが、現代における圏外はだいたいがエア圏外だ。以前に湯治で世話になった山の温泉宿も携帯の電波は入らず、公衆電話の設置まであった。だが今や冷蔵庫やケトルと同列に数えられる館内設備たるWiFiが存在してしまっていたので、いつものぐうたらに温泉が追加されただけの過ごし方をした。電波が好きなのに、電波から逃げたい。全部自分の頭の中だけで完結させたい。

 そして新潟へ旅に出た。かねてより船に乗って移動がしたいと考えていて、しかし豪華客船クルーズを体験するには金も時間もなく、船旅入門編とばかりにフェリーに乗船してみたのだ。私の住む街の港にはおもに春から夏にかけて豪華絢爛なクルーズ船が寄港する。そこから県内の各観光地へのツアーバスが出ていたり、街に降り立って百貨店で買い物を楽しんだりしているらしい。朝に入港し、夕方に出港、夜の海を泳いでまた次の港へ。車椅子の高齢者の方がご家族と観光を楽しんでいるようすも見かける。飛行機や鉄道と違って荷物を運びながら移動する必要がなく、旅行中は同じ部屋に帰るわけだからパッキングと荷解きを繰り返すこともないのだ。私が旅行中に連泊したがるのは、パッキングーアンパッキング

を日数以上に行うのが億劫なのと、帰宅の疑似体験をしたいから。ここが家だと思わせてほしいのだ。

 クルーズが旅客に対してのサービスなのに対し、フェリーは貨物輸送の性質が強めで、接岸したフェリーのお腹から大型トラックがドンドコ出てくるし、またドンドコ乗り込んでゆく。フェリーは自家用車やバイク、自転車の持ち込みも可能で、そういった乗客は車両に乗り込んだまま船のお腹に入ってゆく。徒歩で乗船するのが私ひとりだったようで、係員の方に直接声をかけられて船に誘われる。銀のタラップが朝日を反射して光っていた。


 出発2日前の会社の昼休みに突発的に予約をしたので、ほぼノープランである。大まかな旅程は以下の通り。


1日目 8:30秋田出航、15:30新潟着、新潟市内のホテルに宿泊

2日目 終日観光、22:30フェリー新潟出航、フェリー個室泊

3日目 5:00秋田


 2日目のフェリー泊のように、夜間の航海は移動と宿泊が同時なので、旅費は抑えられた。ただし寄港地によっては早朝・夜遅めの発着で、規則正しい生活リズムの人には辛いかもしれない(自分のことだが)。私は乗り物酔いをしやすいのだが、船体が大きいほど船酔いはしづらいそうで、今回は特に問題なかった。さすがに就寝時には船体の音とわずかな揺れは気になったが、海の揺籠ということにして目を閉じていた。


 往路は日中移動なので荷物置場の確保で十分とし、各ベッドに仕切りカーテンがあるドミトリー方式の部屋にした、が、閑散期なのか実質個室だった。部屋に一つだけの小さな窓から外をのぞくと、発ったばかりの港が遠く霧の中へ飲み込まれてようとしていた。ア、こうしている場合ではない、とにかく船を、海を、潮風をこの身に覚えさせるのだ。


 まず私が探したのはデッキだった。屋外に出られることは事前にSNSで確認済みだ。しかし「強風のため」との注意書きとともに外への扉はどれも鎖で閉ざされている。外に出たい旨を乗組員の方に訊く勇気もなく、迷子になりながらもようやく船尾に重いドアを見つけた。切ったばかりの髪が荒々しく揉まれ、耳に風が吹き込み、鳥が螺旋階段を上るようにくるくると飛び上がっている影を追いかけて、踊るようにデッキに出た。天候は良好だが船のスピードが速いので、これは風の影響が最も小さいであろう船尾しか解放できまい。海と空の境目も曖昧なくらい遠くに本州や飛島、それに粟島の影がぼんやり浮かんでいる。島に渡航したことがないので、いつか訪れてみたいと思っている。周りを海に囲まれる気持ちってどんなだろう。


 船内には無料のオーシャンビュー大浴場がある。ホテルの大浴場のような立派な設備で、ひとり貸し切り状態で大海原を眺めながら身体を温めた。ホカホカのご機嫌の状態でゲームコーナーでぷよぷよをプレイなどしてみる。筐体がかなり古いのでドットが粗く、またディスプレーの縁に丸みがあるせいで、ぷよの色の識別が難しい。色が重要なゲームであるにもかかわらずだ。オレンジを4つ揃えたと思ったら紫で、しかもじゃまぷよを大量に落とされて負けた。オレンジと紫の区別がつかないことある?怒って例の茶呑み骸骨を罵倒してしまったし、たぶん声に出ていた。


 食堂や売店は常にオープンしているわけではなく、営業時間前に船内放送でお知らせをしてくれる。季節ごとに寄港地にちなんだメニューも出していて、そちらも非常に惹かれたが今回は日本海航路限定のイカ丼にした。本格的な盛り付けが美しく、イカは甘くておいしかった。学校の食堂のようにレーンを横移動して小鉢は自分でトレーに載せ、メインはスタッフさんに頼む形式だ。この小鉢も種類が豊富で迷ってしまう。こことは別に、要予約だがコース料理のレストランもある。


 この船は始発が北海道なのだが、そこからずっと乗船しているであろう人もちらほら見かけた。基本的にインターネットが使えないので、サロンで読書をしている人が多い。(スマートフォンが完全に圏外になる瞬間は意外と少なくて、しかし非常に通信が遅く、圏外も変わらなかった)あと少し昔の映画の上映会もやってくれるので、穏やかに過ごしつつも退屈はしないのだろう。船は一番落ち着いた交通手段かもしれない。


 そうこうしているうちに下船の時間が迫ってきた。港に近づくにつれ行き交う船の数も増える。船尾デッキで鳥の躍動するさまを鑑賞していると乗組員の方が作業を始めて、日本の国旗を設置した。紺瑠璃の海で日の丸が潮風にあおられてはためいている。あ、カモメが魚をくわえて仲間に見せびらかしてる。船は、自動車が車庫にバック駐車するのと同じように、港内でクルッとターンして船首を沖に向けて接岸する。乗組員が陸側の作業員に投げ渡したロープを係船柱に固定すると、船がミシンのボビンのようにロープを巻き取ることで岸壁にじりじり船体が近づいていく。作業員がサーッと退避したのを見て、『ガラスの仮面』でマヤが船のロープに足を取られて大変なことになった回を思い出した。


 路線バスに乗って新潟駅へ。新潟駅は駅舎も駅ビルも新しく、大きな街なだけあっててとても立派だ。近隣の高校で運動会があったようで、運動着姿で連れ立って歩く学生たちが楽しそうだ。若者が楽しそうだと自分も機嫌が良くなってしまう歳になった。ホテルを予約するときに感じたのが、新潟市の宿泊料金は安いこと。どの部屋が当たるかわからんがお得ですよというプランにしたが、朝食付きで6,000円程だった。割り当てられた客室はみごとな窓一面の隣のビルの壁ビューで逆に笑ってしまったが、今回の旅はホカンス要素がないので問題ない。朝食は郷土料理がふんだんに用意され、おなじみ栃尾の油揚げにタレカツ巻き、のっぺ。小学校の給食に出ていたのっぺい汁って、もしかしてこれ?新潟は何を食べてもおいしく、特に栃尾の油揚げは居酒屋でも頂いた。


 今回は船に乗ってみることが一番の目的であったので、観光スポットについては何も調べないまま来てしまった。歴史ある建物を見るのが好きなので、豪商の別荘であったという旧齋藤家別邸に向かうべく路線バスに乗り込む。旅先ではチャンスがあれば地元の路線バスを利用することにしていて、というのも路線バスはその土地の勉強になるのだ。バス路線は基本的に駅・病院・学校・役所を結ぶように設計されており、15分も乗ればそこで暮らしている人々の生活の輪郭をなぞることができる。車窓からいろいろな工夫も見ることができるし、似た歴史を持つ土地どうしでも違いを発見することがある。


 旧斎藤家別邸では、解説員の方に勉強になる話をたくさん教えて頂いた。東京からお越しの男性と何となく一緒に話を聞く流れになり、3人それぞれの地元の話も交えて学びがある時間だった。建築も庭園も今なお手入れが込んでおり圧巻の一言。秋の紅葉が一番の見頃なのだそうだ。新潟市は意外と積雪がないので雪景色は非常にレアなんですな、ホラッ!と当時の写真も見せて頂いた。


 礼を述べて外に出ると6月らしくない日射しが強く降り注いでいた。ちょうど正午を告げる鐘がカトリック教会から響き渡り、鳥が一斉に飛び立っていった。この地域がおそらくかなりの高級住宅街と見え、コンビニやちょっとした軽食屋がない。バス時間まで半端で困りつつ、いつまでもその場に留まるわけにもいかずとりあえず歩くと料亭の入口に「カフェ営業中」とある。しかし趣のある門構えと庭園に気後れしてコッソリ覗いていたら、奥から和服を召された女性が歩み寄ってきて招き入れられる。通された洋室はかなり広く、西の壁一面がガラス張りで庭園を楽しみながら休めるつくりになっている。別邸の日本庭園とは異なって南国風の木々もあり、密集して生繁っているおかげで光が射し込みすぎず、非日常にどこか高ぶっていた神経が治まる気がした。室内の一角には由緒ある調度品が設えられていて、おまけに庭園を散策しても良いという。アイスコーヒーとバナナケーキの分の代金以上の、素敵な体験だった。


 帰りのフェリーの出航時刻は22:30だが、飛行機と同じように港には1時間前に到着して待機していないといけない。私は基本的に早寝早起きなので、21時に外に出ていることがまずなく、あちこち動き回って体力も消耗したので19時頃には既に眠かった。その時間帯のフェリーターミナル直通のバスはなく、少し離れた停留所から土産でパンパンのリュックによろめきながら歩く。夜の港にまばゆい光を浴びる白く大きな船は、なんだか夢みたいだった。うっかりエーゲ海あたりまで行っちゃったりしないかな。旅の終わりはいつも悲しくなる。


 22時過ぎに改札が始まり乗船した。復路は浴室とバルコニー付きの個室で、ホテルと変わりない設備に驚いた。すぐにシャワーを浴び、出発の汽笛とほぼ同時にバルコニーに出る。月がよく見える、晴れの夜だった。街の光から逃げるように暗闇に向かう船がかき分ける波が、月光に照らされて弱々しいきらめきを散らしている。明るくても暗くても、それは光には違いない。でもいつかはもっと巨大な光に追いつかれて焼かれてしまう。どうしてずっと夜じゃないんだろう…。


 朝日が昇るのを見たかったので、4時に目覚ましを設定したが、3時には起きてしまった。誰もいないデッキに走り、陸の向こうから橙色が顔を出すのを見届けた。いつかこの朝日の続きを旅しようと決めた。

2025/04/09

1月の東京と千葉

  東京はいつも少し気が張る。畏まった場に呼ばれたわけでもないのに、自分比150%の畏まり具合が必要な都市こと東京。あまりヘンテコな服はいけないと、タイトスカートにパンプスをよそ行きにすることが多いのだが、東京ならヘンテコでも薄まるんじゃないかと頭の片隅で考えることもある。それでも結局、新幹線の窓から見える景色から雪が去りつつあるのに比例して、気持ちが畏まる。

 友人から贈られたブローチを身につけて、都会的なカフェで落ち合った。ブローチに気がつくと彼女は破顔し、いつものように私の全部を褒めてくれる。全部だ。

 それなのに私は人を褒めるのが苦手なのだ。わざとらしくなってしまうから、何だか場がしらけるんじゃないかとか、社交辞令に思われてるんじゃないかとか、怯えが常にある。人と会った日の夜は、今日も全然何も伝えられなかった自分に失望することがあるくらいだ。でもこの日は、いくらか出来たように思う。


 私のリクエストで行ったベトナム料理店は、かなり人通りの多い場所ながら落ち着いていて、メニューも豊富で良い所だった。ベトナム料理はアジアの他の国に比べて辛すぎないので、いくらでも食べられる。友人が頼んだココナッツジュースが、椰子の実に穴を開けたものだったのには驚いた。心がトロピカルだ(?)。


 2日目はDIC川村記念美術館に行った。千葉県佐倉市のこの美術館は25年3月に閉めて、所蔵作品を減らした上で都内に移転するらしく、駆け込みの来館が大変増えているとのことだった。このとき八重洲に宿を取ったのだが、その八重洲から直通バスが出るというので計画を立てやすかった。

 一度バス停の前を通り、2人しか居なかったので素通りしてコンビニで水と梅を購入して戻ったら10人くらいに増えていた。親切な方が事前にXで教えてくださった通りに、20分前には並んでおとなしく待っていると、列はどんどん伸びて向こうの信号まで繋がっちゃうんじゃないかと思うほどだった。最終的に大型バス2台に分乗して出発。

 私が千葉県に足を踏み入れたのは中学校の修学旅行以来である。それもディズニーランドだ。親戚も住んでいる県なのに、千葉県のことをまるで知らない。1月の千葉県は春先の東北地方と景色が似ていた。


 天気が良くて風もそれほどないので、ベンチやテラスでお弁当を食べたり、芝生に寝転がったりしている人もいた。おそらくモグラが開けたであろう芝生の穴がポツポツ確認できた。来館者増により、素敵な敷地内レストランは完全予約制になっていて、代わりにキッチンカー等が来てくれているらしい。この日はお弁当屋さんがいて、昼前に着いたのでゲットできた。この日はとにかく並んで早い者勝ちのことばかりをしている。彩りが綺麗でおいしかったし、手描きの献立イラストが添えられているのが良かった。


 ロスコルームを目にして、Vanessa Carlton の『Afterglow』の歌詞を思い出していた 色が見える、暗い赤が…


 建物も庭園もあんなに手入れが行き届いているのに、もったいないことだ。都内に縮小移転ということは全く別の美術館になってしまうのだろう。時々DICの社員の方も遊歩道を歩いてらして、グラウンドやテニスコートもあるし、きっと福利厚生の側面もあるのだろう。美術館として完成されたひとつの形態であると同時に、維持が難しいことも容易に想像できる。

 いかにも都会的な、無機質な外観の洗練された美術館が悪いというわけではない。削ぎ落された中に囲われた収蔵品に美を見出すことはできる。でも私は美術館や博物館は豊かさと地続きであってほしいと祈っている。それは資本的な成功という意味ではなくて、豊饒さを抱えた何かである。世界が自分の手に負えないほど広いことなんて知っているのに、ずっと余白を探し続けている。死ぬまできっとそう。


 帰りは東京駅直通ではなく、佐倉駅までの無料送迎バスを利用したが、これも満員だった。なんだか電車に乗ってみたい気分だったので、JR総武線に乗ってみる。まだ冬から目覚めきっていない、淡い芽吹きの郊外の街がコンクリートとガラスの迷路になって左から右へ流れてゆくのを眺めていた。

 地元のビール屋さんに、両国におすすめのビールのお店があると聞いていたのを思い出し、両国で降りてみる。国技館にしか見えない建物があるし、スカイツリーにしか見えないタワーも見える。早い時間帯から開けている店で、人気店なので夕飯時には入れないこともままあるらしく、一番乗りでお邪魔してみた。遅れて常連らしい人や慣れた感じの人が席を埋め始める。すぐそばの国技館で行われている取組をテレビで観ながら、フィッシュアンドチップスなどをつまみながらビールをゴクゴク飲み干す。私は20時には帰宅していたいので、明るいうちから飲める飲食店があることが羨ましい。


 外に出たら空が夢みたいな色をしていた。水色とピンクの水彩画に、東京の骨組みを貼り付けたみたいな、そんな空だった。

2024/12/08

箱根

 箱根に行ってきた。あれほど名高い観光地であるものの、その名にちなんだ入浴剤のパッケージのイラストと、駅伝をテレビで観るぐらいしか接点のない、箱根だった。

 観光というよりも、ラリック美術館とポーラ美術館をメインに、天気次第ですすき草原を考えて宿を仙石原に取った。「知らない山で、閉じている」がテーマだったので、この選択はベストであった。
 仙石原はチェーン店が少しと、地元の小さな飲食店がポツポツ。路線バスはまめに走るので便利な土地である。観光地というよりは古くからの保養地としての性質が強く、住民と観光客の住み分けが明確な印象だった。民家や個人商店が並ぶ小道を抜けた途端に、生活感の薄い硬くつるっとした保養所や研修施設が整列している。山の中に都内の新築分譲マンションをいったん置いてそのまま忘れてしまったみたいな、半分嘘っぽい景色が広がる。”The Backrooms “とタグ付けされるタイプの動画をリアルに楽しんでいるかのような浮遊感があった。

 仙石原は羽田空港から高速バス1本で行けるというのが良かった。小田急ロマンスカーも捨て難い魅力があったが、キャリーケースを転がしながら新宿駅までの移動というのがハードルが高い。私はくまさんやうさぎさんがいる山で育ったので、ターミナル駅が怖いのだ。都内の鉄道を利用する時は、乗り換え回数が多少増えようが小規模な駅を挟むことさえある。あと単純にバスのことが好きなので、高速バスを選んだ。バスの窓に打ち付けられた霧の粒が集まって、滴になって流れていくのを3時間眺めていたら着いた。私はバスの窓を見ている。景色ではなく窓。

 宿はホテルコンドミニアムという形式で、開業1年未満のためとても清潔であった。全客室がかなり広めの作りになっていて、キッチンと洗濯機を備えた部屋を選んだため、旅行というよりは引越しをした気分だ。身ひとつで入居し、手配した荷物が届くのを待っている…大涌谷の蒸気が揺れるのをバルコニーから眺めながら…。洒落た建物は入口から芳香を漂わせている。花とミルクを混ぜたような香りにゲストを取り込んで、何か別のものにしようとしている。そして作り替えた何かを宿の外に放っているのだ。
 私は2泊以上の旅では洗濯をするのだが、コインランドリーの待ち時間が苦手だ。旅行中の貴重な1時間弱の間に何か用事を果たしたくても、帯に短し襷に長しというか、とにかく半端なのである。食事や入浴には短いし、かといって館内散策には長すぎる。部屋で大人しく過ごし、そろそろ終了かと様子を見にいくと残り10分もあったりする。あと洗濯中に着られる服が備品のパジャマしかない問題。選んだ客室にはパナソニックのキューブルが備え付けてあって、持参した洗剤(弱アルカリ性1回分、中性1回分、酸素系漂白剤2回分)で快適なランドリー・ライフであった。自宅にはとても置けないような立派な機種なのだが、これが初めてでも直感的に操作しやすくて良いものだなと思った。

 ところで私はかなり目が悪いのだが、最近の洒落た建築物について困るのが、暗いということだ。とにかく照明の光量を絞っていて、かつ内装も艶消し仕上げで反射がないため、わずかな光を建物が吸収してしまう。ゲストフロアの廊下は、客室ドアのキー部分にだけスポットライトが当たるように調整されている。雰囲気は好きなのだが、職業柄、実用性を気にしてしまう。掃除の時くらいは明るくするのだろうか…。

 まとまった雨は2日目朝まで、との予報は後ろにずれにずれ、まともな晴天は最終日だけであった。宿から徒歩すぐのラリック美術館は朝9時の開館ダッシュの勢いで楽しみにしていたが、雨雲レーダーにはずっと青色がへばりついている。植栽が雨に打たれるのを眺めながら、朝食の豆のスープを口にしていた。朝食で一番よく食べたのは、自家製ハムに地場産蜜柑のドレッシングをかけたもの。私は地元食材という言葉に弱い。あと野菜のグリルにベーグル。私はかすがこぼれるのが嫌で、パンは焼かずに食べる。

 ラリック美術館は、団体客とかち合ったために多少の賑やかさがあった。あらかじめ予約しておいたオンラインチケットで入館してから気づいたのが、紙のチケットという形に記念品が残らないということ。旅先の路線図やパンフレットや、美術館のチケットやリーフレットを取っておく用のバインダーがあるのだが、そこにそっと差し込むチケットがないことに、少しの寂しさがある
 企画展「ラリック×ダンス」の説明にニジンスキーの名があったのが訪問の主たる動機だが、結局いちばん印象に残ったのは、展示作品ではない、壁に埋め込まれた葡萄の意匠のガラスなのであった。淡く霧の中で形作られたような粒の葡萄を見つめていると、自分もガラスとエマイユでできているような気分になる。

 ポーラ美術館に寄るバスに揺られて、強羅の地形のダイナミックさに目を白黒させていた。とにかく傾斜がきついので常に身体が前のめりで、更にはヘアピンに次ぐヘアピンで頭を左右にブンブン振られる。私はこの道を自分で運転する自信はない。
 ここはとにかく建物が素晴らしいとの事前情報を持っていたが、実際に目にすると圧倒される。自然を活かした建築とはよく言うものの、これ以上のものはなかなか無いだろう。天窓から降り注ぐ光と雨。吹き抜けのなかを飛んでいるかのようなエレベーターの連続は、美術館というよりはデパートを思わせる。でも、地下だ。私は地下室に憧れがある。閉じている気がするから。

「フィリップ・パレーノ:この場所、あの空。」
 映像作品『マリリン』を2.5周した。0.5は、途中から展示室に足を踏み入れたからだ。この作品を文章だけで説明するのは私には難しく、備忘録として感想を記しておくことしかできない。
 ・ 自分の中にある実存主義的なものの見方をより補強した。客室からカメラが引き続けてスタジオ全景を映し出し、観客である自分を通り越して、中庭のあれが現れた時の「お迎えが来た」感。
 ・ これを見た日が雨でよかった。夢想は続く。
 ・ 映画『サイトレス』を思い出した。


 ポーラ美術館から出てもまだ雨は降り続いていた。どこか晴れ間を見つけて仙石原すすき草原のなかを駆け抜けるというミッションを設定していたのだが、これは諦めるほかなかった。傘も合羽も靴カバーもあるが、そういうことではないのだ。乾いた風に吹かれたすすきの穂がざわめいて、私を誘い込んで散り散りにしようとするのを見たい。雫に濡れて頭を垂れる穂を見たいのではないのだ。

 またいつかの秋に。