2011/09/23

9月23日の日記

梨と砂糖を鍋に閉じ込めて煮詰めたやつと、かたまりで買ってきたチーズと、輸入食品の店で安かった東南アジア産のちょっと油っこいクラッカーと、あとオムライスを食べている。雨の予報が続くと食べ物について偏執的になると気付いたのはまだ二十歳になるまえの梅雨あたりだった気がする。私はその食べ物たちにまことに勝手な共通項を持たせて、雨の日々に飽きるまでそれらを黙々と腹に収めていく。その共通項は何でも良いし、ひらめき以外に特に理由がないことだってある。小説や映画のなかの人物になりきるつもりで食べ物を偏執的に選ぶこともある。いま私が何を考えて梨とチーズとクラッカーとオムライスを食べ続けているのかは秘密なので教えてやらない。

毛布とタオルケットと、白い湯気をのぼらせるマグカップの組合せが似合う季節がやってくる。この街の秋はほんとうに短いので、秋が横を通り過ぎた風に冷えた赤い耳を撫ぜてはじめて秋のことを思うようなものだ。もっともそれは過去に置いてけぼりにされた秋であって、現在という時間軸は冬につかまってしまっている。



私は本当に何もしたくないのだなあと思う。幼さが許す、いつかはこうありたいという期待や希望、あるいは熱意のようなものを叶えるだけの向上心はすっかり冷え切ってしまった。そのいつかはまさに今なのだろうなと気付いてしまったからだろうか。だって私にはあまり時間がないのだ、身体の動かし方が限られてしまったのだ。追い続けたものの目の前で脚が折れてしまうかもしれないことを想像したら、何も追わずにいることを決め込んでしまったほうがずうっと自分にやさしいやり方に思えたし、おそらくそれは正しい。好ましいものを少しづつ摘み取って、胃袋に取り込んでいくだけの毎日が私の生きる理由であるし、死ねない理由でもある。胃のなかには青い鳥がいるのだ。