2012/11/06

きっと普通に生きて死ぬ




 命というこの世でいっとう不可思議なからくり仕掛けの、動物を動物たらしめる赤味を帯びた闇をつるうりとくぐり抜けて、ぼたりと重たい音とともに産み落とされる。したたかに打ちつけたことで弾け散った臓物のかけらは、いつか流しに捨てた黒すぐりのゼリーに似ていた。煮詰められた濃密な黒の膠質から滲んだ、いくぶん水っぽい赤。背中から神経を通じて伝えられる衝撃はあらゆる胞を揺さぶり弾けさせ、繊維の束を駆けてゆく電流、檸檬ソーダの気泡が爆ぜたような微細なふるえは手足の末端まで。



 そうして気道はこじ開けられてしまった。それは私がいちばん初めに境目を失い、そして世界に触れた瞬間だった。





 ひとつ、ふたつ、呼吸のたびに私と世界の純度は失われてゆき、何でもない、名によってその存在を仮初めに分かたれたものの集まりに近付いてゆく。どこまでも私であったはずの身体から、肺を膨らましていた空気が膜の仕切りのない世界、圧倒的なあまりに広大な、際限なく膨張し続ける世界へと押し出されてたちまちのうちに霧散する。身体という器に収まっていたときにはあんなにも私のためのものであったのに、打ち消されて霞んで散り散りになるのは儚い。
 代わりに肺を満たす世界は、いくぶん比重のあるものだったので少しばかりその重さが堪えた。煙草の灰、ダイヤの削りかす、カップにこびり付いたマドレーヌ、それは何でもないと同時にありとあらゆるものあり、私の身体を鈍く沈ませる働きをする。異質なもの同士が流入し合うことで損なわれてゆく純度、それは全てを等質に、均一にすることを意味していた。

 お気に入りの洗剤の匂いがすっかり染み付いたタオルケットにくるまり、固い床に横たわって月を眺めていると、ひとが自我と呼ぶものが色彩と味と香りを失って急速に希薄になってゆくのを感じていた。夜が私に嘘をついたことはたったの一度もなかった。世界じゅうが眠りに就いて夢のにおいが立ち上るとき、そのときだけは、もう手の届かぬ過去のかなたを思い返すのと同じくらいの穏やかさをもっていられるのだった。



 蓄積された過去を掬い上げようとそこに手を差し込むと静電気のように微弱な痺れが走るのを、いつも気付かないふりをしている。記憶の揺らぎはいつだって同じ光景を連れて来る。
 地底から溢れたマグマの色をした西の空を背にして、誰かがこちらへと振り返る。誰の顔なのか、どんな顔なのか、男か女か、逆光のために何ひとつ窺うことが出来ぬけれど、何がそんなに楽しいのと問いかけたくなる口元だけは忘れられないのだ。その口元以上のことを知ろうとしてはいけない。思い至った途端に輪郭はぼろぼろと崩れ落ちてしまうから。燃えるような朱色に透けた髪、起伏にしたがい影を作る黒、ちらりとのぞく真珠のように白い歯。水性のインキで描かれた絵を雨で濡らしたかのように、少しずつぐずぐずにちぎれて色彩が滲んでゆく。姿かたちは意味を持たなくなり、濃淡を帯びた色のかたまりに覆われて、やがて闇がやって来るのだった。

 そしてその美しさは何よりも真実であったし、永久に変わらないものでもある。私が過去と呼ぶものは退色も腐敗も風化もありえぬ、しかし冷凍保存された遺伝子やピンで留められた標本たちの不自由さからは解放されている。たしかな熱を持ち、いのちの躍動をもって跳ねまわることの許される、裏切りを知らぬものたち。

 変わらずにあることは尊い。しかし転回を繰り返すこの世界において不変であることは困難で、それ以上に悲しさを伴うものだった。嵐の海でかたくなに碇を底に下ろしたまま夜を過ごすように、すっかりぼろになってしまったお気に入りの靴で頼りなく立ち続ける。浜辺に忘れられた砂の城が波をかぶり、端からじりじりと削られ、しまいには砂粒に還っていくのを見つめていた。全てが浸食し合うことで何もかもが空白に、あるいは混沌に染まっても、それだけはいつまでも美しいに違いないと思われた。

 そして残ったものだけを抱えてごろりと横たわり死を待っている。それはもう世界を手に入れたも同じことだった。そしてそれは何があっても失われることはない、決して。





 涙を流しながら唄を歌うのは、生まれてこのかた初めてのことだった。伸びがあるとは決して言えない、喉をちりぢりにすり減らしてしまうような潰れた声が這いずり出てきた。肺に棲みついた漠とした薄暗さが確かなかたちを持ち始め、その両の手で私を内側からトカトカと打つ。慟哭に時おり跳ね上がる胸。そのたびに唄はぶつ切られて、意味を為さない掠れた呼気に還って吐き出されてしまう。涙を流させているのも、唄を歌わせているのも、からだ全体を震わせるほどにしゃくり上げさせているのも、何もかもが肺のうちの陰鬱な泥海だった。

開け放たれた北向きの窓から、底抜けに澄んだ青空が見える。その眩しさが部屋をよりいっそう暗くさせて、自分は深い井戸の底でうずくまっているかのような錯覚を覚えるのだった。




 ふいに世界は無音でなくなった。蝉が鳴いている。かなしい、かなしい七日間の始まりだった。