2012/11/06
ベイビーピンク
薄く繊細なレースの天蓋のなかで、あのこはうなされておりました。まっさらな、清潔なリネンの敷かれたベッドにその身体を沈ませて、喉の奥から掠れるような息を吐き出して、薄い胸を上下させているのでした。その小さな額に載った水を含んだガーゼはすっかり温くなってしまい、ガーゼをよけたそこだけがふだん通りの白く透き通るような涼しい色をしていて、目もと、鼻、あご、首筋・・・至るところから汗が噴き出しているありさまでした。三日前に突然熱を出したあのこは、寝ても覚めてもうなされ、目眩がして光が刺さるようだというからずっと目を伏せたままで、ひどい風邪をひいた時のように鼻を詰まらせ息苦しく、ろくに食事を摂らず、時たま檸檬水で湿らせる程度の喉は干付いてヒュウヒュウと空気の通る音がするだけでした。
八つ折りにしたガーゼを広げ、桶で軽くゆすぎ、冷凍庫から取り出したばかりの氷のいくつかを包みます。そうして冷たさが布地を通り越して伝わったならば、もう一度軽くゆすぎ、きつくきつく、絞り上げます。広げて皺を伸ばしたガーゼをまた畳むのです。今度は四つ折りにして、少しだけ幅を持たせ、そうっとそうっと、目隠しのようにまぶたの上に載せたのでした。
(可哀想に、あのこはまぶたを挟んだ向こうが暗くトーンを落としたのにも気づかないふうでした。相変わらず苦しげに呼吸を繰り返して、肌から汗を滲ませて、それだけ。熱のせいでいっそう赤味を増した、その薄い唇の隙間は、闇でした。宇宙、星を散らすどこまでも暗く孤独な空間、そのかなたから響く声。狭まった口峡の向こう、掠れて渇いた音が漏れて、眩い外の世界へと抜け出そうとして、あのこの呼気によってまた引き戻されてしまうのです。光には、粒子としての性質があるといいます。あのこの胸がゆっくりと膨らむとき、真っ暗で閉じた肺の内側では光の粒が、空気を含んでいっぱいに爆ぜているのでは無いかと私は思うのです。とっぷりと更けた夜に点ける線香花火のような火花が、何十も何百も、パチパチと。肺の内側にその消し炭がこびり付いてしまったので、きっとあのこはこんなにも苦しげに息をするのでしょう)
あのこのまぶたに載せたガーゼに、淡い黄色を見つけたのでひとつ摘まんでみたらば、それは酸味を帯びた香りがしました。檸檬の果汁を湛えた砂じょうでした。それは白いガーゼのあちらこちらに付着していて、あのこの鼻梁の脇にもひとつ落ちていました。どうも私は井戸から汲み上げた洗い物用の水を水差しに注ぎ、喉を潤すための檸檬水を桶にあけてしまったようで、鏡台に置いた桶に張られた水をのぞき込むと、なるほど檸檬の皮の削りかすと破けて果汁を逃がした膜が浮いているのでした。果汁を包み込む役目を失い、あとは干乾びていくだけの抜け殻ほど虚しいものもそうそうありません。存在意義とかいうものを持たぬのに、物質としての形は残してしまっていることの不思議さときたら。
とにかく砂じょうをひとつひとつ摘まみ上げ、檸檬まみれのあのこの顔をどうにかせねばなりませんでしたから、ひと粒ひと粒、人差し指と親指の腹で丁寧に取ってやりました。病人の顔に何度も触れるのは気が引ける思いでしたが、視覚はおろか触覚まで鈍ってしまっているのかあのこはちいっとも反応しませんでした。いやにつるりとしたセルロイドの人形を振り回して遊んでいるのに、今ではあのこのほうが人形のようです。ベッドに沈んでいる姿が当たり前のようになってしまって、こうなるより以前、三日よりも前のあのこの生活はずいぶん遠くに感ぜられます。あのこは生まれた時からずうっとベッドに沈められたまま大きくなったのだったかしら。どんな歌を覚えて口ずさんでいたか、どの花を好んで摘み取って来たか、茶髪よりも金髪の人形を贔屓にしていたか、オムレツとガレットどちらが好きだったかしら、利き手は、目の色はグレーだった‥‥ああ違った、それは私のことでしたね。
ふいに風が強く吹いて開け放たれた窓に垂れたカーテンを大きく巻き上げ、その風はこちらまで届いて天蓋のレースを軽く揺らしました。繊細なレースの網目の向こうで、夏の日差しが踊っているのが見えました。窓際に生けられた華やかな大輪の淡いピンクのバラがいくらか花びらを散らして、ベッド脇の椅子に腰掛けていた私の足元に落ちました。拾い上げた花びらは、先がうっすらと茶色く滲み始めていました。その控えめな色合いに相応しく、肺いっぱいに空気を吸い込んでやっと分かるくらいの甘い香りのその花は、あのこの一番のお気に入りです。あのこのいっとう困った性癖というのが何でも口に含むというもので、黙って愛でるのでは飽き足らず、この花が一番味がよいと言ってきかないのでした。ベリージャムに似ているとも言いました。
花びらの、枯れ始めの乾いたところでそうっとあのこの口を撫ぜてやります。あれほど好んでいる花がくちびるに触れる感触も、控えめな香りも、何ひとつとしてきっと認識できないのでしょう。確かにあのこの身体はここにあるのに、これは花の香りに鼻をひくつかせることも繊細な花びらの縁取りに見とれることもせず、くちびるの隙間に宇宙を抱えているのです。宇宙に散らされた花は果たしてその姿を保っていられるのか、そんなことがふいに閃いたので、薄く開いた口にスルリと花びら一枚を滑り込ませました。透き通るエナメル質で覆われた永久歯に引っ掛かる感触ののち、それは宇宙に、広大な宇宙に漂う塵として放り込まれたのです。しぼんでしまうの?灼けて炭も残らないの?時間ごと氷づけにされるの?ああ棘が霜で覆われるさまを見たかった、花びら一枚なんてけちくさいことせずにまるまる一輪にすれば良かった。
幻想に胸を高鳴らせているあいだにもあのこは身動ぎひとつしないので、ちょっと調子に乗って指先を宇宙の入口に這わせてしまいました。これがいけなかったのです。ググ、と潰れた声の震えが指先に伝わり、そしてあのこは盛大にえずき始めました。人間の反射神経に押し返された手には当たり前ですが唾液がべったり付いていて、それを認めた次の瞬間にはあのこの左頬を思いっ切り叩き飛ばしていました。咄嗟のこととはいえかなりの力だったので、あのこの上体は跳ねてベッドから浮いて、仰向けから若干横向きになった身体はまた沈みました。グレーの両目がこちらをじっと見つめています。衝撃で顔を隠していたガーゼが何処へか飛んでしまったため、はからずも目を合わせることになったのです。あのこは何が何だかさっぱり分からぬといった表情で浅い呼吸を繰り返しながら、口元を金魚のように戦慄かせています。わずかにのぞく歯茎と歯の根元、舌に貼り付いたのであろう花びららしき影。それはただの口でした。宇宙なんてどこにもなかったのです。間抜けな顔をしたあのこがいつも通りにそこにいるだけでした。